経済産業相が、東京電力福島第一原発の周辺市町村を 「市街地は人っ子一人いない、まさに死の街という形だった」と述べた。
ことに対して批判がたくさん来ているらしいです。
不穏当だから、のようです。
さしさわりがあって、適当でないから、のようです。
私にはこの言葉が現状を正確に表現した言葉かどうかは分かりませんが(現場を一度もこの目で見ていませんので)、第一原発周囲の現状を恐らく一番キツく端的に表した言葉ではないかと想像します。
恐らく、多くの日本国民にとって「死」という言葉から想像されるもの、御遺体、死臭、その他が自分の世界から遠くにあり、従って「死」という単語から想像できる世界への意識が貧困になっているためのアレルギー反応による批判、もある程度含まれていると考えられますが、何よりも、「死」という言葉から、夢も希望も連想されないと多くの国民が考えているからでしょう。復興への意欲を削ぐに十分すぎる不適切発言だ、と。もしくは地震の津波で御家族を亡くされた方々、「死の街」と表現された街から他の地へ避難された方にとっては、「死」という言葉が、震災の記憶をまざまざと想起させるものだったのかもしれません。
現場を端的に表す言葉として「死の町」は、言葉としては間違っていなかったと仮定しても、復興への意欲・希望・夢を微塵も感じられない「死」という言葉に、多くの人々の感情を害したために批判されたに違いありません。
ということで、他にいくらでも表現の仕方があっただろうにも関わらず、「死」という言葉が現在のこの国でどれほどの批判を浴びるか、について想像力を駆使する余裕もなく、口をついて出てしまった方には幾許か同情せざるをえません。(このように私が書くことで「同情する相手が違うだろ」と怒り狂う方々がいるに違いないこともまた、想像できます。)
こんな言葉の揚げ足取りで「辞任しろ」、「任命責任は」、といくら言い続けても不毛です。国会での討議の時間は、この言葉がどの程度不適切だったかを骨の髄まで思い知らせるような他責的懲罰的態度で反省させることではなく、現場の人が幸せになるような大事なアクションをどう行うか、に使ってほしいところです。しかし、「想いなき所に言葉は生まれず」とも考えられますから、このような言葉を吐き出す人間に、これから重要な仕事をさせてよいのか、という批判もあるでしょう。となると、国民皆が認めるような何らかの成果を出すまでは、閣僚の方々は記者会見なぞ一切受けず黙々と仕事をしなければならないのでしょうか?あぁ、一体どうすればいいのでしょう。
私にはよくわかりませんが、こういうときには
「指導者の一層の成熟を求めるなら、国民自身が忍耐を学ぶべきだ。各党は世論調査の気まぐれを無視すべきだ」(2011年9月5日 産経新聞(iPhone アプリ版)6面 フィナンシャル・タイムズ(アジア版)より)
との記載が頭を過(よぎ)ります。閣僚も、私やその他の方々と同じ人間です。同じ人間であれば、私と同じように下らない思念に囚われたり、下らない言葉を発してしまうこともあるでしょう。人の気分を害するような言葉を口走ることもあるでしょう。不適切といわれることが想像されるような言葉を発した人間、そしてそれを短絡的に批判する人間。二元論的にマルかバツか。これだけ多くの人間がグレーゾーンな思考で生きている世の中において、短絡的な批判、対立を繰り返しているだけでは今後も何も変わらないのではないだろうか…と思ってしまいました。
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ブログの記載を初めて3年になるので、テンプレートを変えてみました。これも偏(ひとえ)に、私の妄言に対して、悪意をぶつけずに、温かく見守って下さった方々のお陰であると感謝しています。