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2011年9月17日土曜日

(本) 三教指帰、と、絶対貧困、でほんのちょっと変わる人生

三教指帰(さんごうしいき)は空海24歳の著作。儒教、道教に対する仏教の優位性を記した小説。
以前購入していたことをすっかり失念していたために、2冊目を購入してしまった。つまり前回買ったときには読んでいなかったということ。読んだのは加藤純隆、加藤精一訳注、角川ソフィア文庫、2007年版。

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・一度ついた臭気はなかなか取りにくいのと同様に、人の習性もなかなかあらためるのは難しいのです。(p21-22)
・「私たちは長い間、瓦礫にも似た教えをもてあそんで、わずかな楽しみに耽って満足していました。たとえてみれば、蓼くう虫が、辛い蓼の葉を食べなれてしまって、それを美味だと思い込んでいるようなものですし、厠のうじ虫が臭いにおいになれてしまって、その臭さが解らなくなってしまったようなものです。」(88)
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上記を読んだ後に、「絶対貧困 世界リアル貧困学講義(石井光太、新潮文庫)」を読む。
1日1ドル以下で生活することを「絶対的貧困」と一般的に言うらしい。以前から読もう読もうと思っていたのだが、今回、文庫化されたことを知り、遂に読むに至った。

私にとって本書も所詮は暇潰し。本を読みたいと欲するのは心のどこからか湧き出る渇望によるものではあるけれど、その渇望は所詮は安全な生が保証された上での渇望なのである。
本書を読んだからといって、売春宿に落ちている使用済みのコンドームの精液を食べに集まる蟻が歩くような場所(本書で紹介されている)を想像することはできても、実際に自分が著者と同じように寝ることは不可能だろう。
それどころか相変わらず贅沢にも区民税や所得税は高いと思ってしまうし、33℃の研究室で英語文献を読むことは不可能に近い所業だと思ってしまう。いくら、勉強できる環境が幸せだ、と制約された自分の貧弱な想像力を最大限に駆使して、本書の登場人物たちに思いを馳せても、昨日までの思考や行動の習慣はなかなか変わらない。

今の自分にできるのは、自分が今いる場所や環境や時代を、地球に暮らす人間の中で、相対化しようとせいぜい努力することくらいである。
それは、短絡的には、衣食住足ることがどれ程恵まれているかということだし、このように自分の思考を記録できることがどれ程恵まれているか、ということだし、このような絶対的貧困の世界を、本を通じてではあるけれど知ることがどれ程恵まれているか、ということだし、極東の島国において、自分の身の安全が高率に保証された状態で誰かに対して文句や批判をできるということがどれ程恵まれているか、ということである。うじうじ悩むことすら、どれ程恵まれているか、ということである。日常のちょっとした「幸せだね」という言葉を吐き出す瞬間に、本書の登場人物たちのことが頭を過(よぎ)ったとしても、それが絶対的貧困にある彼らの生活を改善させることには全く役立たないけれど、油断すると傲慢になる私の気持ちをクーリングすることくらいには役にたつ。それが社会や他人にどのような利点を齎(もたら)すのか、と問われれば、全く大したことでないのだろうけれど。

しかし、不十分で凡夫であることを自覚する私にはその程度しかできないし、他人に本書を読むことをすすめる気もないけれど、少なくとも自分のできることやしたいことを通じて社会に貢献できるような、謙虚な気持ちで生きていこう、と改めて思うことに役だった2冊でした。