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2013年7月31日水曜日

(麻) いつまでこんなことが続くのか本当に心配してしまいます。澱粉製剤の話です

全く理解不能です。
というのも、ヘスパンダーとサリンヘスの話です。

発売元のフレゼニウス・カービからこのような情報が出されています。

2012年のNEJMで報告された、多施設RCTの論文その他を受けて、我が国くらいでしか使われていないであろう、低分子HESについての使用制限勧告の情報です。

これを真に受けるならば、重症敗血症患者の手術中に、麻酔科医はヘスパンダーおよびサリンヘスを使用してはいけないということになります。

ということは、つまり、severe sepsisの大腸穿孔のような手術の麻酔をする際には、晶質液を入れてみて、輸液反応性が見られなかったらノルアドレナリン、アドレナリン、バソプレシンで昇圧して、それでも循環が保てないようならば、アルブミンや新鮮凍結血漿や赤血球や血小板を入れろ、ということになります。血液製剤を使用すると死亡率が上昇するという報告も、海外では多数されていますが、どうすればいいんですか?晶質液だけで頑張ればいいんでしょうか?それも1回も自分で使ったことのない薬剤での研究結果を受けて。


なぜ、中分子のHESでの報告を真に受けて、低分子HESの使用制限が、しかも発売元から全くの無抵抗のような状態でなされるのか、私には全く理解出来ません。


いま話題になっている、ノバルティスファーマのディオバンについての論文がおかしいからといって、同じ作用機序の他のARBの使用制限がなされていますか?

EBMとおっしゃるのならば、重症敗血症患者において、低分子HESを使用することで腎代替療法率や死亡率が上昇するという大規模前向き研究が、これまでに1つでも行われたんでしょうか?それも日本人を対象として。

中分子HESでの結果が悪かったからといって、別の薬剤であるヘスパンダーおよびサリンヘスまで悪玉にするなんて意味がわかりません。

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でもきっと今後、重症敗血症患者の麻酔でヘスパンダーやサリンヘスを使ったりしたら、その麻酔科医は、外科の先生や集中治療専門医の先生から怒られてしまうのでしょうね。

「麻酔科が術中にヘスパンダー使ったから、この患者さん透析することになってしまった/お亡くなりになってしまったんですかね…」と。

一時期もてはやされていた周術期のベータブロッカーのことを思い出してください。

日本で麻酔をして、お金をもらっているプロの麻酔科医は、少し怒ったほうがいいと思います。このような、木を見て森を見ずな情報、私は全く受け入れることができません。

因みに申し上げますが、私は、フレゼニウス・カービとの利益相反は一切ありません。

私には想像できないほど頭のいい人たちがいろんな判断や決定を下している筈なのですが、このようなことしかできないんでしょうか。

久しぶりに気分が悪くなりました。

2013年7月27日土曜日

(雑) narrativeの最中に自分がいるうちは、その意味に気づけない


朝、目覚めてからおよそ60分以内に、その日一日分の幸せを感じることが出来るような日。そんな日は、その日その後覚醒した状態で過ごすだろう十数時間のクオリティについて、過剰に思いを巡らせて消耗する必要もないでしょう。心の赴くままに目の前のことに懸命に取り組めばいい筈です。


運良く日の出を拝むことができました。この時期にしてはひんやりとした大気の中で、蝉や鳥が鳴いていました。

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「いい選択をしたなぁ」と決断をした直後に胸をほっと撫で下ろすような場合、それはそれでいい選択なのかもしれませんが、最上の選択ではないと思います。いい選択をしたなぁ、って選択した後すぐに思える事自体、自分の想像力の範囲内でしか選択しなかったのだ、そしてその結果も自分の想像力の範囲内にしかなかった、ということです。少なくともその選択をしたことによっては、何も成長できていない気がします。蕎麦を食べるか饂飩を食べるか、珈琲を飲むか紅茶を飲むか、という程度の話ならばどちらを選択してもいいのでしょうが。

何かを決める際に、決めることに影響を及ぼす因子、全てについて可能な限り情報を収集する…そしてそれに基づいて決定する。そうすることで、その決断がイマイチなものだったとしても「あれだけの情報に基づいての結果だから仕方ないか」と自分を納得させるのは比較的簡単かもしれません。過去の自分を振り返ってもそう思いますが、それを学んだことで大人の階段を昇ったと錯覚してはいけない筈です。もっと大人に憧れる必要があります。

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EMCrit Blogに掲載されています。
輸液反応性を予測するための指標として、CVPを一刻も早く退場させるべきである、というニュアンスのメタ解析を紹介しています。Paul E. Marik氏がCrit Care Medに投稿した論文です。

少し前なら、私も心からこの意見に賛同していたと思います。
ですが、今、心からは賛同できないように感じるのは、私の麻酔科医としてのnarrativeに、これを確信するだけの経験がないからです。私の麻酔科医としてのnarrativeをもっともっと積み上げていって、その時点で自分の経験としてこれを確信できる日が、万が一来るのならば。

その日が来るまで、否、その日が来なかったとしても、私は麻酔をし続けようと思います。

2013年7月20日土曜日

(麻) 第2回手術室看護師さんとの麻酔の勉強会、無事に終了しました

一週間に1回しか行かない病院の手術室で、手術部の看護師さんたちと脊髄くも膜下麻酔についてディスカッションさせてもらいました。

まだ医者になって10年も経っていない、私のようなぺいぺいの麻酔科医が、人生の先輩達である看護師さんたち相手に、麻酔の何を語れるというのでしょう。看護師さんたちは、流石人生の先輩としての大人の忍耐を保ちながら、私の話に熱心に耳を傾けてくださいましたし、彼女たちが日頃外科系各科と一緒に仕事をしている中での麻酔の疑問点を精一杯解決すべく私に疑問を沢山投げかけてくださいました。その疑問の中には私が知らないことも含まれていました。それだけで、一昨日の木曜日に、クリーンベンチで13時間くらい殆どぶっ通しで実験をした後に、2時間ほどかけて勉強会の資料を作成した甲斐がありました。どうもありがとうございました。


私がしている仕事のゴールはなんだろう…いつもそう思って麻酔をしています。


自分の生涯麻酔担当数は数カ月前になってようやく2000件を超えました。大学院生になっていなければもっと早い段階で到達していた数でしょう。
プラクティスを重ねるにつれどんどん臆病になっていく自分と闘いながら―それでも患者さんがご自分の病気と闘っている真剣さに比べたら万分の1にも満たないのでしょうが―勇気を奮い起こして、そして昨日の自分の麻酔より少しでもよい麻酔ができないか日々模索しながら麻酔をしてお金をいただいています。

時に自分が計画した麻酔法が上手く実践できず、先輩麻酔科医の手を煩わせてしまうことも、未だにあります。それでも自分が上手くできなくても、上手くできないと認識してなるべく早い段階で−恐らく麻酔科医が行う手技であればせいぜい十数分だと思いますが−自分のプライドだか何だか得体のしれないものをかなぐり捨てて、もっとうまく出来るかもしれない可能性のある人が周りにいればその存在にスイッチする…というのがプロを名乗る麻酔科医としてのミニマムエッセンシャルだと思います。
本当はそんなことせずに全て自分で完遂できれば、それが理想なのでしょうが、多分それは私の妄想でしょう。私くらいの年数を麻酔科医として生きていれば、きっと私など比べ物にならないくらい臨床麻酔が上手な先生がたくさんいるはずです。いてくださらないと困ります。

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最近になって、漸くこの方の自伝を読みました。ヘレン・ケラーの自伝です。


99頁にこう、記されています。

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文章を書くときの最大の苦労は、その混乱した思い、中途半端な感情や考えを、「理性のことば」で表現することにあると思う。ものを書く行為は、難解なパズルを組み立てていくようなものだ。頭の中には、あるイメージがあり、それをことばで表現したいと思う。しかしことばというピースが、うまくパズルにあてはまらない。あるいはうまくはまったとしても今度は模様が違う―。それでも私たちは挑戦をやめない。すでに成功した人たちがいることを知っているからだ。あっさりと敗北を認めるわけにはいかないのだ。
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私がこのブログに書き記す文字が、書き記している人間の思いと同程度に人様に伝わっているなんて思えません。
思えませんが、もし読んでくださる人がいて、何かを感じていただけるのであれば、それだけで私がここに記すことは成功していますし、もっと挑戦すべき価値のある仕事でしょう。

明日も、今の自分が想像していないようなことに、出会えますよう。