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2012年3月29日木曜日

(雑) 全部が全部、戯言って言えば戯言ですよね

自分のことを完全に棚にあげたうえの妄言です。

医師生活丸7年になりますが、これまでいろんな先生たちの発表を聞いてきました。日々の症例のプレゼンテーション、麻酔科研修医としての総括、論文の抄読、ほか。医師としてはまだひよっ子の私ですが、それでも色んな発表を聞くと、演者がその発表にどれ位専心したのかが怖いくらいに分かってしまいます。どのくらいそれに対して興味が有るのか、興味がなくてもどのくらい調べてきたのか、どのくらい「いい日本語がなかったんですけど」と発表の中で告白するまでに葛藤があったのか、こんな内容自分的にはどうでもいいけどあんな質問飛んできそうだよな、と頭の中で沸き上がってきた時に「調べとこ」を選択したか「もう眠いからねよ、わかりませんって言えばいいや」を選択したか、いや、そもそもそんなことすら頭に浮かばなかったか。妄想かもしれませんが、手に取るように分かってしまいます。

発表はその多くが無難な出来なのですが、研修医の発表でも思わず聞き惚れて「弟子入りさせて下さい」と思わず平身低頭しまうような達者なものもあるし、逆もまた然り。そして中には、思わずその場から立ち去りたくなるような内容のものもあります。

それらの発表を思い出して、具体的に”自分にとって”何が酷かったのかを考えて、自分がその轍を踏まないようにしたいと思います。

・スライドに書かれている内容そのもの
―文字が小さい。これは何よりも害悪だと思う。それだけでもうついていけない。すいません、勘弁してください、まだ朝で眠いんだよ。
―これは笑いを取ろうと思って書いているんだろうか?、というような文章。―十数分のプレゼンテーションで笑わせるのは凄く難しいうえにリスクが高いでしょう。もっともそんな文字をスライドに載せたのはちょっとした冗談のつもりで、聴衆を笑わせる意図はこれっぽっちもないかもしれませんが。だとしたら尚更「こいつこんなこと書いてなめてんじゃないのか」と思う聴衆がいるかもしれないことについての想像力を少しはふくらませたほうが良かったんじゃないだろうか、と私は心配になって胸がざわざわしてしまいます。演者が非常に真面目で賢く、発表内容の「真面目な部分」への信頼性がきちんと担保されているとき、もしくは普段からいろんな人に愛されていて、ちょっと不謹慎な内容でも「まったく、しょーがねーなぁ」と、聴衆に笑いながら許容される先天的とも言える人柄の良さの持ち主か俳優のような演技力の持ち主、のどれかであれば笑ってもらえると思いますが。。私は其のどちらでもないわ、と自覚する私のような人間であれば、まずプレゼンテーションの内容が「その時間帯、空間、聴衆全てにおいてアクセプトされうるのか」についてこそ真剣に考えるべきなんじゃないだろうか。過度にプライベートなこととか、こんな大変な症例にあたったんですよ、と聴衆に甘えるような内容を晒すのはご法度ではないけれど、聴衆にいい印象を与えることは少ないと自覚したほうが良い。
以前参加した何かの学会。80分程度の教育講演の合間に、演者やその友人以外にはどうでもいいと受け取られるようなプライベート写真を混ぜてくる演者がいたのを思い出す。会場は静まり返っており、私自身も居心地の悪さを感じてその場から逃げ出したくなった。これは新手の嫌がらせだろうか?とその後今に至るまで真剣に思い悩まされている。

・質疑応答での対応
―相手が質問して言葉を発している最中に、それにかぶせて答え始めるような場に居合わせてしまった時。これも逃げ出したくなる。具合が悪くなってくる。恐らく質問者も不快になるだろう。ちゃっと質問をきいてんのかよ、と。そして演者が自己防衛をしているような印象を、私は受けてしまう。

・語尾がふにゃふにゃな、しっかりしない話し方
―スライドに書いてある言葉を、機械的に順を追って話す方が千倍マシ、というプレゼン。スライドの内容を網羅してない上に、どこもかしかも中途半端なつまみ食い。にも関わらずスライドにない内容のごにょごにょとした言葉を随所に挟んでくる。「えぇ~」とか「あの~」とかならまだしも、何故か言い訳がましいセリフを随所に挟まれるともう絶望的に具合が悪くなり、貧乏揺すりが止まらなくなる。結果的に喋り手の頭の中が混沌とした状態だってことしか伝わらない。私のアタマにケイアスを送らないで下さい。相手にわかってもらおうとする努力を著しく欠いた自慰的プレゼンテーション。

・以前のスライドの焼きなおし
1年も前のスライドを再掲するのには勇気がいる。少なくとも、そのスライドに1年前に関わった聴衆が今この場に何人かいることが予め十分予想されるときには、相応の覚悟が必要である。1年前と比較して、自分がどう成長したのか。この1年間にいろんな患者さんの麻酔を担当したはずである。いろんな論文を読んだはずである。いろんな同期や先輩、後輩の麻酔経験を見聞きしたはずである。学会会場でいろんな発表に触れたはずである。いろんな医療過誤ニュースに触れたはずである。いろんな映画や音楽、本に触れたはずである。いろんなところに旅行したはずである。そういったものに触れてなくても全然構わないけど、何がどう成長したのか、それを少しはスライドに反映させるのが、研修を受けた側のマナーなんじゃないかと思う。

麻酔科医が遭遇する最悪のイベントの1つは、予定手術を受けた患者さんの術後死亡である。その死に麻酔科医として関わったんじゃなかったのか。あれは一体何だったんだ。この麻酔科医は、患者さんの死から何を学んだのだろう。何も学んでいないんじゃないだろうか、と思わず天を仰ぎたくなる感情に、私の心が朝から支配されてしまうことが何よりも耐え難い。
私はまだ、不幸な転機を辿った患者さんに対して、敬意が全く払われていないような発表に対しては、0.00001%も共感できないし、全く甘い評価ができないです。それすら、自分の想像力の限界を示しているのでしょうが。

口下手、口が達者。日々の発表ではあんまり関係ないと思います。要はどれくらい準備したか、それだけでしょう。下手だと思うなら要点を文字に起こしてそれを読めばいいんじゃないだろうか。聴いていて気持ちが良いプレゼンっていうのは、どれくらい愛をもって準備したか。内容に対しても聴衆に対しても。それが大きいと思います。

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私は911について、全くといっていい程なにも分かっていませんが、Iced Earthの「When the Eagle Cries」に涙腺を刺激されます。音楽の良いところは、その製作者の思惑と全く違うところにおいても共感なり何なりができるところだと思います。音楽を通してならチュニジアの人でもネパールの人でも、世界中誰とでも共感できそうです。全くの勘違いかもしれませんが。そう思うとこの世界もまんざら捨てたものでもないのかも知れません。

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最近の読めてない本。

・クラシック迷宮図書館 音楽書月評1998-2003
・シュリーマン旅行記 清国・日本
・空気の発見
・地獄の季節
・いやな気分よ、さようなら
・南方熊楠随筆集
・方丈記
・故郷/阿Q正伝
・非常識な読書のすすめ
・百姓たちの幕末維新
・禅マインド ビギナーズ・マインド
・ダンゴムシに心はあるのか
・須賀敦子全集第1巻

そのうち読める日が来るでしょう。

2012年3月25日日曜日

(雑) ただ待つ日々

90歳代の緊急消化管手術を立て続けに担当しました。
小心者の私は「どうか心臓止まりませんように!」と毎回毎回深い祈りを捧げるだけなのですが。

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待つことには、偶然の(想定外の)働きに期待することが含まれている。それを先に囲い込んではならない。つまり、ひとはその外部にいかにみずから開きっぱなしにしておけるか、それが<待つ>には賭けられている。ただし、みずからを開いたままにしておくには、閉じることへの警戒以上に、努めが要る。<待つ>は、放棄や放置とは別のものに貫かれていなくてはならないからだ。 <待つ>は偶然を当てにすることではない。何かが訪れるのをただ受け身で待つということでもない。予感とか予兆をたよりに、何かを先に取りにゆくというのではさらさらない。ただし、そこには偶然に期待するものはある。あるからこそ、なんの予兆も予感もないところで、それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ。その意味で、<待つ>は、いまここでの解決を断念したひとに残された乏しい行為であるが、そこにこの世への信頼の最後のひとかけらがなければ、きっと、待つことすらできない。いや、待つなかでひとは、おそらくはそれよりさらに追いつめられた場所に立つことになるだろう。何も希望しないことがひととしての最後の希望となる、そういう地点まで。だから、何も希望しないという最後のこの希望がなければ待つことはあたわぬ、とこそ言うべきだろう。( 「待つ」ということ ― 鷲田清一、角川選書、2006年 p18-19)

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じりじりと焦りながらも待っています。これまで会ったことのないものを待つ日々です。追いつめられてはいません。いよいよ追いつめられていると自覚したときには色々と切り離すことになるでしょう。ロケットの打ち上げとおんなじです。

気がついたら、このブログものべ10万回、見てくださった方がいるようです。書いたものをウェブに上げてから750日ほどになりました。自分の半径5mのことしか書いていないのですし、お礼を申し上げるのもおかしな感じがしますが。ありがとうございます。

2012年3月17日土曜日

(麻) だからSVCが困ったことなんだって ~前縦隔腫瘍とSVC症候群メモ

前縦隔腫瘍(AMM)によるSVC syndrome(上大静脈症候群)の患者さんの麻酔ってかけたことありますか?私はなかったので、今回勉強してみました。ワタクシ、バイト麻酔科医なんですが・・・。

自分が経験したことないような合併症をもった患者さんの担当をするときの作法
・上でも下でも経験したことのある麻酔科医に聞く(できれば麻酔にも立ち会ってもらったり、術中に来てもらえるとなおよい)。
・とにかく騒いでおく。静かに「明日、大丈夫かなぁ…」とか、ひとりよがりな麻酔計画していないで、いろんな人の力を借りる
・教科書や雑誌、論文に可能な限りあたり、自分なりのプランを立てておく。1個だけ(それも症例報告だけ)読むのは危険である。まぁ読まないよりはいいだろうけどさ。
・危険に陥らない(=患者さんを死に至らしめるような目にあわせない、の意)を第一に考える

ほかにもいろいろとあるんでしょうが、私が今思いつくのはこれくらいです。
そして論文を探してみたのですが、いざ探してみると意外にいいものが見つからなかったです。
最近のものとしては下のCJAの論文でしょうか。
Anesthetic management of patients with an anterior mediastinal mass: Continuing Professional Development. Canadian Journal of Anesthesia. Volume 58, Number 9, 853-867, 2011

残念ながらフリーではないのですが、よくまとまった論文でした。大学などにいて読める環境にある人は読んでもよさそうです。

前縦隔腫瘍はとにかく気道管理が大事です。昔の自分のブログの記載を見直すとこんなメモがありますが、こちらの内容は論文にしてくださってます。

ほかには、最近買った本Practical Handbook of Thoracic Anesthesia のp335-353にはよくまとまってます。
・右側を上にした仰臥位。患者さんが仰臥位になってもdyspneaの症状でないか聴いておく
・前縦隔腫瘤による気道圧迫には自発呼吸が大事…特にハイリスク症例(and/ or 小児)では。自発呼吸がなくなると気道がぺちゃんこに潰れて換気できなくなるかも。
・特に起座呼吸がある場合は、全身麻酔ハイリスク。超要注意。
・無症状成人で麻酔関連心肺合併症の危険性が上昇するかは不明
・画像所見、ファイバー所見が安全ならば、無症状AMM成人患者に全身麻酔導入は大丈夫だろう。
等々。
上記CJAの論文と、おんなじような内容の記載でした。教科書にはフローチャートも載っており、それも参考になります。それはそうと、この教科書の当該ページの参考文献を眺めると1970年代とかかなり古いものが多い。それでいて2011年の論文とあまり大差ない内容というのは…。

@SVC症候群で麻酔上注意すること
・気道の浮腫~挿管も抜管も慎重に
・気道圧迫と出血
・静脈路は下肢にとる、手術がSVCに及ぶようなら大出血に対応できるように大口径のものを。CVCを大腿静脈から確保するか、末梢なら18G以上のものを2本とったほうが良い気がする(1本つまっても大丈夫なように)。ということは予定手術ならCVCの同意書も取っておいたほうがよさそうだ。
・仰臥位やトレンデレンブルグ位は病態増悪するかも。重症度をきちんと評価。問診大事。
・麻酔前の気管拡張薬やエピネフリンは有用かも。

SVCを切除するような手術では術式をきちんと術者と確認しておくことも大事です。静脈還流不可能になると脳や頭頚部の浮腫が起こります。人工血管によるバイパスを置くとか色々すると思うのですが、それについて「だいたいこんな感じ」ではなく、外科医に手順をしっかり教わるとよさそうです。脳は予後に直接影響しますからね…。

書き散らかしてしまいましたが、次回に同じような状況になった時に色々と思い出せるように、ここに記しておこうと思います。

2012年3月11日日曜日

(走) Training (其の百四十-四十一)

2/26: 10.0km 61min
3/11: 5.0km 25min17s

目が痒く、鼻づまりのため呼吸が苦しく、くしゃみと漿液性の鼻汁が沢山出る。
今日外出したら、アレが突然発症しはじめた。
あんまり酷くて頭がぼぉっとしてくる。

アレジオンを飲んでも症状は同じ。ついでにだるくなってきた。
それでも走りに行けばもしかしたらよくなるかも…と走ってみると普通に走れる。
走ってる最中は鼻水も出てこなかったが、走り終えた途端にまた鼻汁がぽたぽたとたれてくる。
…ずっと走ってればいいですか?

(雑) 今年度の生活ざっと振り返ってみた ~麻酔を中心に

まだ3週間ありますが、今年度も終わりです。学生の頃は毎年1学年上がるので、妙に緊張したものでしたが、働き始めるとそういった感覚はなくなります。目標も誰かにセットしてもらうことはなく、なんとなく自分で設定します。そんな生活が始まってもうすぐ8年目。あっという間に時間ばかりが過ぎていきますが、学生の頃に戻りたいと思うことがないっていうのは素晴らしいことなのかも。

およそ費やした時間配分
実験38%、睡眠25%、麻酔17%、それ以外の食う、読む、遊ぶ、走るなど:20%
大風邪を引いた回数:2回

@今年度の麻酔症例まとめ
最年少:1歳7ヶ月
最高齢:93歳
最短手術時間:5分
最長手術時間:9時間50分
最短麻酔時間:38分
最長麻酔時間:11時間6分
一日最高麻酔症例数:6症例
ハイリスク:抗凝固療法中の急性硬膜下血腫、uAPで胸痛ありの非心臓手術、その他何件か
 緊急手術の麻酔率:32%
脊麻入らなかった率:4.3%
硬麻入らなかった率:0%
研修医の先生と一緒に担当した率:39.8%
主なポンピング症例
 1:RCC 10u, FFP 8u
 2:RCC 14u, FFP 15u, PC40u
 3:RCC 20u, FFP 14u, PC10u
夜間の緊急手術で夜一睡も出来なかった率:15%


こうして列挙して振り返ってみると、麻酔科医としては一番平和な1年だったんだなぁ、と思います。一人当直でオンコールなし、という状態は今年度が人生初でしたが、まぁ何とかなりました。頼めばくる輸血と患者さんの状態が自分の手におえる程度の重症具合だったということには取り敢えず感謝。
麻酔科医2年目の時には麻酔科オンコールを週3回やってました。あの時よりも麻酔科医としては今のほうが多少は上達している筈ですが、どんどん小心者になっている自分がいます。手術室から当直室まで歩いて3分くらいですが、夜間はその距離すら長く感じて手術室近くの部屋で眠れぬ使途不明な夜の時間を過ごしたこともありました。それで人間的な成長でもあれば良いのですが、同じところをぐるぐると回っているだけのような気がします。
クリーンベンチとオペ室の間に戸惑うことの多かった一年ですが、どっちでも少しは上達が実感できるような新しい年度になるよう、じみ~に生きていこうと思います。

***
「増補 iPS細胞」
知らないことをいっぱい教えてくれる良書でした。一般の方向けとしては難しい記載もあるかもしれませんが、凄く読みやすい文章です。医者が読んでも眼から鱗は結構いっぱい落ちると思います。私が無知なだけかもしれませんが知識欲は満たされました。

2012年3月7日水曜日

(本) 異邦人 - カミュ (窪田啓作訳、新潮文庫、1954年)とThe Outsider - Albert Camus (translation by Hamish Hamilton 1982)

何故か気になったのは下記。

・もはや私のものではない1つの生活、しかし、そのなかに私がいとも貧しく、けち臭い喜びを見出していた1つの生活の思い出に私は襲われた。夏のにおい、私の愛していた街、夕暮れの空、マリイの笑い声、その服。この場で私のした一切のことのくだらなさ加減が、そのとき、喉もとまでこみ上げて来て、私はたった1つ、これが早く終わり、そして独房へ帰って眠りたい、ということだけしかねがわなかった。(p.111-2)

友人に絡んできたアラビア人を銃殺。逮捕され法廷では殺害した理由を、太陽のせいだ、という。その場面が有名な作品なので、ストーリーテリングは不要でしょうか。今更ですが、私自身は人生で初読了。薄い文庫本なのに、日本語がちょっと読み難い。半世紀以上前の訳だから仕方ないのかな。そう思って英訳版を注文。だって原著のフランス語版は私には読めません。届いた英語版で、早速同じ箇所をチェックすると、

I was assailed by memories of a life which was no longer mine, but in which I'd found my simplest and most lasting pleasures: the smells of summer, the part of town that I loved, the sky on certain evenings, Marie's dresses and the way she laughed. And the utter pointlessness of what I was doing here took me by the throat and all I wanted was to get it over with and to go back to my cell and sleep.

どちらの訳者も同じように訳しているように見えます。

***
犯罪の加害者を断罪することに慣れてしまっているこの世界においては、疑問にすら思うことは少ないのかもしれませんが、本書を読むと、こちら側(逮捕されないで普通の生活を送っている状態)と、あちら側(法に触れて身体の自由を拘束される状態)の距離について考えます。私がこちら側にいるのは、たまたま人を殺さずにいるから、たまたま誰かのお金を盗まないから。たまたま放火しないから。たまたま、法に触れる様なことを特別に欲することなく、麻酔をしたり細胞を相手に実験して生きていられるから。こちら側にいるとあちら側が遠いのか近いのか。その距離はよくわかりません。わからないまま一生涯を終えるのが、所謂幸せってやつなのでしょうか。しかし、生まれてこの方、そういった、あちら側へのパスポートとなるようなことを本気で欲することなく、かつ、実行しないで来られたのは、よくよく考えるとラッキーだとしか思えません。生まれてくる環境が選べない以上、そもそも人の人間性の高さというものが、その人が自分の意志で努力できるようになるかどうかという以前の段階で決着がついてしまっている可能性も結構高いんじゃないだろうか。そう思うとどんなひどい事件を見聞きしても、自分が深く関わっていない状態でこの口から吐き出される言葉は虚ろなばかりのような気が。うーん、こんなことでもやもやするなんて思春期みたいだ。

2012年3月4日日曜日

(映) 今更だけどキル・ビル Vol.1 (Kill Bill: Vol.1) (2003年)

久しぶりに映画ネタを。
といってもこの映画は有名なので内容については今更語っても仕方ないので省略。見てる人はとっくに見ているだろうし、興味ない人は一生見ないでしょう。という映画。
私自身もう何年も見ていないのですが、昨日明け方に子供の緊急手術の麻酔をかけているときに、ふと「Bang Bang」が頭の中に流れてきたので、懐かしくなってサウンドトラックを引っ張り出してきた…それだけです。

Lucy Liuの頭がちょん切られたり、千葉真一の英語が面白かったり、逆にユマ・サーマンの日本語が素敵だったり、映画自体にも楽しめるポイントがいっぱいあるのですが、何といっても音楽が素敵です。

Nancy Sinatraが歌う「Bang Bang」を映画の冒頭に見て聴くだけで、この映画を映画館で見た価値があったと思います。私はどんなに好きな映画でも、同じ映画を2回以上続けて映画館でみることのないような薄ら俄か映画ファンですが、本作は複数回劇場で見たその数少ない映画の1つです。それも冒頭のたった3分弱の曲「Bang Bang」が聴きたいというだけで。

一般的には布袋寅泰の「Battle Without Honor Or Humanity」が有名ですし、CMでもこの曲ばっかり流れていた気がしますが、それはまぁ横に置いといて・・・というくらい、この映画は秀曲が多いのです。

ルーシー・リューとユマ・サーマンが雪の中で決闘するシーンに流れるSanta Esmeraldaの「Don't Let Me Be Misunderstood」(劇中ではヴォーカル抜きだけど)も最高。
Al Hirtの「Green Hornet」も最高。
梶芽衣子の「修羅の花」も最高。
Gheorghe Zamfirの「The Lonely Shepherd」もセンチメンタル。

ということで選曲のセンスが最高なので、映画の内容はどうでも良くなってしまうほど、この映画に対する思い入れが強いのでした。何でこれ程までに、日本人である私の心を揺さぶる曲ばかり一本の映画に詰め込んだんですか、タランティーノさん。