目の前に、自力では容易に登れそうにない壁があるとき、その壁に対してとれる行動は沢山あります。
何とかえっちらおっちら頑張って頑張って壁を登るのか、叩き壊す手段を考えるのか、そこまで頑張らずとも時間をかけてちょっとずつ削って壁が倒壊するのを待つのか。引き返すのか、大きな回り道をして壁の向こう側に行くのか、その場に居続けて誰かが壁を壊してくれるのを待つか、そこまで依存せずに誰かと手を取り合って一緒に壊すか。それとも壁があることに気付かないふりをするか。壁のこちら側で生活するのを是とするか。もっと登りやすそうな壁を探すか。
そもそも、壁の向こう側に行きたいと思わなければ、目の前の壁を疎ましく思うこともありません。壁の向こう側に行きたい=欲がある状態といえます。
だからこそ悩みます。しかし、壁が「かつて何処かで見たことのあるような壁」だったら、それを登った時の記憶を手繰り寄せればよいでしょう。ですが、これまで乗り越えたことのない、見たこともないような壁であれば、最適な壁の乗り越え方、なんて分かる筈もありません。最適な方法どころか本当に登ったほうがいいのかどうかもわかりません。「登り方マニュアル」をどこかで探しだしたとしても、そこには著者の想像力に基づいた、最大公約数のことしか書かれていないでしょう。人生は人それぞれ違うし、本を書けるほどの知の持ち主でも、想像力には限りがあります。ある人にとっては「誰かが壁を壊してくれるのを待つ」が正解かもしれないし、またある人にとっては「頑張って壁を登ってしまう」のが最適な答えになるかもしれません。
時間が無限にあったら様々な方法を「あーでもない、こーでもない」と試行錯誤するのもよいでしょう。しかし、人生は有限なので、そう悠長なことも言ってられません。
問題は、自分が登ろうとしていた壁の高さを見誤っていたかもしれない、と確信に近い絶望にぶち当たってしまった場合です。遠くからは2m位にしか見えなかった壁が、目の前に立ったらてっぺんが見えないほどの高い壁だった。そんな場合です。そんな時には、誰かの力を借りたとしても登れるでしょうか。「ロケッティア」のクリフ・シーコードやヘリコプターなどの乗り物を使えば可能かもしれませんが、人力のみでは無理でしょう。
しかし世の中の多くのことは、リスクに応じたリターンがくることになっているようにも思います。ローリスクローリターン、ハイリスクハイリターン。宝くじのようにローリスクハイリターンを望むのは、娯楽としてはよいかもしれませんが、人生の本筋でそれをやるのは、私にはちょっと難があります。
メディアや映画、小説では「彼は大変だけどやめないで頑張って頑張って死に物狂いだった。その先に今の成功があった」というのは多いですが、実際には少ない。だからこそ、誰の耳にも心地よい「感動的なよいお話」になるわけですが。あぁ、でもリターンを考えてばかりの人生も嫌だ。
一向に要領をえない文章で大変恐縮ですが、書きながら思考がまとまってくるのを我慢強く待ってみました。
易きに流れるのを嫌悪していたのは誰だったか。
自分の関心の輪に集中せよ、をスローガンにしていたのは誰だったか。
最後の血の一滴まで絞り出す事を信念にしていたのは誰だったのか。
そして今の自分がそれらから遠く遠く遠く離れている事を、誰よりも認識しているのは、他ならぬ私自身だ。
道は自ずから決まっているようです。