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2011年10月1日土曜日

(本) 老人と海 ― アーネスト・ヘミングウェイ (1952年)

読んだのは、福田恆存訳、新潮文庫版です。
小学生5,6年生頃だったと思うのですが、一度この本は買いました。ですが途中で脱落。
私にはそういう類の本が少なからずあるのですが、この作品もそのうちの一冊です。

ボロ舟ででっかいマカジキと格闘し、漸く捕まえて帰港中、今度は鮫に襲われ続け…港についた頃にはマカジキの頭、尻尾、骨格しか残っていなかった、でもそのマカジキは5.5mもあるどでかいものだった…。というお話は有名な話なのかも知れませんが、今回再読するまで、漁に出てマカジキと遭遇したあたりまでの記憶しか、私にはありませんでした。

・原書で読むと、英文の中に「無」だけが”nada”というスペイン語で表現されている。その”nada”という語感、言葉の響きが、虚無感を惻々と伝えてくる。《ヘミングウェイはこんなにも虚無思想に浸る一面を持っていたのか》―私はそう感じたばかりか、”nada”という発音の響きが年中耳でこだまするほど、長いことこの言葉の虜になった。 (もう一度読みたかった本、柳田邦男、p119)

という記載に遭遇したのが、今回再読するきっかけになったのですが、

・「うまい漁師はたくさんいるよ、えらい漁師だってたくさんいるよ、でも、お爺さんだけは特別だ」 p22
・「鳥ってやつはおれたちより辛い生活をおくっている、泥棒鳥はべつだがな、それにでかくて強いやつはべつだ。けれど、なんだって、海燕みたいな、ひよわで、きゃしゃな鳥を造ったんだろう、この残酷な海にさ?なるほど海はやさしくて、とてもきれいだ。だが、残酷にだってなれる、そうだ、急にそうなるんだ。それなのに、悲しい小さな声をたてながら、水をかすめて餌をあさりまわるあの小鳥たちは、あんまりひよわに造られすぎているというもんだ」p29
・あれ一匹で、ずいぶん大勢の人間の腹を肥やせるものなあ、とかれは思う。けれど、その人間たちにあいつを食う値打ちがあるだろうか?あるものか。もちろん、そんな値打ちはありゃしない。あの堂々としたふるまい、あの威厳、あいつを食う値打ちのある人間なんて、ひとりだっているものか。そう考えてくると、おれにはなんにもわからなくなる。まあ、太陽や月や星を殺さなくてもいいというのは、なんといってもありがたいことさ。海をたよりに暮らし、おれたちのほんとの兄弟だけを殺していれば、それでもうじゅうぶんだ。p85-6
・希望を捨てるなんて、馬鹿な話だ、そう彼は考える。それどころか、罪というものだ。いや、罪なんてことを考えちゃいけない。ほかに問題が山ほどある。それに、罪なんてことは、おれにはなんにもわかっちゃいないんだ。おれにはよくわからない、罪を信じているかどうかもはっきりしないんだ。たぶん罪なんだろう、魚を殺すってことは。たとえ自分が食うためでもあり、多くの人に食わせるためにやったとしても、罪は罪なんだろうな。でも、そうなれば、なんだって罪だ。罪なんてこと、考えちゃいけない。第一、もう手遅れだし、そういうことを考えるために、お金を頂戴している人間もたくさんいることだ。罪のことは、そういう連中に考えてもらったらいい。お前は漁師に生まれついたんだ。魚が魚に生まれてついてるようにな。p120

のような言葉に出会うことができ、そして訳も読みやすく、なんでこれを20年弱昔の自分には読了できていなかったのだろう…と不思議な気分になりました。恐らく読みきったとしていても、上記のような文章をスルーするばかりで、その他のいろんな文章も身に染みる程にはならなかったでしょう。今回偶然にも読了できたのはラッキーでしたが、もしかするとまだまだこの作品から得られなかった知恵や何かがいっぱい潜んでいそうなので、時間を置いて記憶の彼方になった頃に再度読んでみようと思います。と書いたことすら忘れた頃に。

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