専門医認定試験が終わって数日たちました。すっかり寒くなりましたが、それとともにいつの間にか夏休みも遠い過去です。主に試験勉強で終了してしまいましたが。
大学院生+アルバイト麻酔科医の生活なので、働かないと死にます。そのため、夏休みの期間も仕事はあったわけですが、そこで何故か大動脈解離→全弓部置換術(TAR)の麻酔を明け方まで担当する…という貴重な体験をさせていただきました。1人でTARの麻酔を担当したのは初めてでした(非医療者の方に誤解されるとよろしくない、と思って書きますが、麻酔管理は別段問題なく終了しました)。問題集2冊持って行ったのに…。
でも、その緊急手術のお蔭で…という文脈は緊急手術の事態になった患者さんに大変失礼な言い方かもしれませんが…人工心肺からのウィーニング、ウィーニング後の輸血ポンピング、電解質補正、TEEでの心機能チェック。それらが1人でも何とかなるものなんだ(寧ろ大学で若い先生と一緒にやっていた時よりも、更に真剣に麻酔をやっている自分を発見しました。患者さんにとって自分という麻酔科医が最初で最後の安全弁であり、そして、自分自身にとっても、何かひとつ間違いを犯したとしても誰も補ってくれないという恐怖心がありますので、真剣なのは当たり前といえば当たり前なのですが)、ということが解った一夜でした。もっとも、安全に麻酔し得た最大の要因は、私の麻酔管理の巧拙よりも、注文した血液製剤がきちんときてくれたことと、患者さんの心肺腎機能が高齢の割に丈夫だったということの2点に尽きますが。
困ったことは以下の5点でしょうか。
心外で使う薬剤(ミルリノン、カルペリチド、ニコランジルなど)の場所がよう分からん、メーカの違うTEEだとボタン操作がよう分からん、腹減ったけど外に出られない、トイレに行きたいけどいつ行ったらいいんだろ、精根尽きたため当直翌日は活動性が極めて低下。
専門医試験が終わったからといって、麻酔管理が格段に巧くなる訳ではなく、「あぁ、なんでA-line入らないんだろ」とほんのり絶望する日々が続きます。
兎も角も、「~~先生流」とか「○○先生はここが巧いから真似しよう」とか「△△先生はこうやっていたけど、あれは何でなんだろう」といった上司同期後輩先生方の様々な様々な様々な実践を模倣し文献的根拠を渉猟する。そうして繰り返し積み上げた数年のものが全部、意識的無意識的に渾然一体となって今の麻酔科医としての私を形成しているのは間違いない。一人で麻酔していると、浅薄ながらも存在する麻酔科医としての積み重ねを忘れがちになりますが、ほかの麻酔科医から見たらどうなのか、外科医から見たらどうなのか、非医療者から見たらどうなのか、非日本人から見たらどうなのか、それを折に触れて点検する必要があると思いました。
「1人でやる方が気楽でいいじゃん」と思ったことは過去に幾度もありますが、私の場合、その感情は「何かあったら誰かに援護してもらえるだろう」という甘い空想に支えられていたのだと思います。「誰か」は助けてくれるのかも知れませんが、自分でしたことは自分で責任をもつ必要があるし「~~先生はこうやっていた」というセリフは、上手くいっているときはそれで良いんでしょうが、上手くいかなかったときに、第三者からの視線や批判に耐えうるのか、それを意識しなければいけない。「誰か」は助けてくれるのかも知れませんが、「誰か」は容赦無く攻撃してくる。その可能性を忘れてはいけない。
勿論、私の想像力には限界があるので、実践の段階においては、あくまでその想像力に限定された低い次元の改善になってしまうでしょう。ですが、問題意識がなくなった瞬間に、麻酔科医としての自分の成長はなくなる、ということを覚えていようと思いました。