恐らく私もそのうちの1人なのだが、言論の自由の意味を履き違えた輩たちが、web上に「お犬さまの縄張りマーキング」の如く、好き勝手に欲望の呪詛を書き綴り続けたために、却って言論の自由はなくなりつつあるように感じる今日この頃。そしてそれはwebだけでなく、その他の悉(ことごと)くに適用されているような。
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福岡教育大(福岡県宗像市)が09年に福岡市で開いた講演会で、外部講師が校区内に同和地区がある中学校教諭の困難ぶりをユダヤ人が大量虐殺された収容所にたとえ「アウシュビッツ」などと発言していたことが分かった。大学側は講演録を記載した紀要(論文集)を発行し関係機関などに送っていたが、不適切な点があったことを認め、回収作業を進めている。(毎日新聞 2011年8月25日 21時45分)
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アウシュビッツや同和の話に、ここでは当然立ち入らない。そしてこの記事の成り行きに異議あり、と申し上げるつもりもない、何故ならアウシュビッツも同和地区の問題も、そのどちらの話題についても、私は素人レベルの知識や理解しか持ち合わせていない。そして、そんな状態で何かを語れば、こんな零細ブロガーの、どこの馬の骨とも解らぬ私の記述にさえ過敏に反応する方がいらっしゃるし(Googleの検索を馬鹿にしてはいけない)、世界の何処かから有難い御批判・非難を頂く事ほぼ必定だからである。ましてやブログタイトルに「医師」であることを宣言している。一般社会の所謂「常識的感覚」からは「医師は高度の倫理観を持つべきである」とされており、世間様から医師への御批判・非難の閾値は、その他の方々に対してよりも低下することが容易に予想される。映画批評サイトであれば許容される「グロテスク」や「ネクロマンティック」や「ブレインデッド」といった所謂露悪趣味の映画について滔々と語ることは、医師という看板を掲げたままに語ることを控えたほうがよろしいかもしれないということである。
誰か(たち)が「不適切」だと考え、それが起爆剤となって引火を繰り返し、皆が不適切の大合唱を始め、炎上し炎上し、灰となって燃え尽きてもなお大合唱は止まない。それがここ最近の世相の一部である。
web社会における真の危険回避は、
「沈思黙考、自分が深くコミットしない問題には立ちいらず、語ったとしても、誰からも悪意の侵入を受けないような無害な話題に終始すること」
否、
「web上では何も語らず、サブマリンのように静かにあちらこちらのサイトをブラウジングして独りぶつぶつと画面の前で喋りながら有用な情報をコピー&ペーストし続ける」ことかもしれない。
以上のことは考えすぎかもしれないが、最低でもこれくらいのことを考えてweb上に文字を彫り続けないと、私もいつの日か数多の不幸な人々のように、医師としてあるまじき「不適切発言」で、一般社会から退場させられるかもしれない。自分の麻酔技術の不備や痴漢の冤罪で社会から退場させられるより以前に。