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2010年9月16日木曜日

(雑)想像と妄想

判断に迷ったときは患者ベース。これは医療従事者に前提として求められる価値観の1つであると理解している。全身麻酔中の患者を前にして輸血、薬剤、呼吸等どのようなdecision makingをするか、外科医にどのようなsuggestionをするか。赤血球は4単位でやめておくのか、もう2単位追加するのか。PVCが散発しているときに手術中止を勧めるのか。
私の判断基準は「どちらが後から、第三者からみてより納得しやすいか」という部分に寄りかかるところが大きい。しかし、それは結局「患者のため」というより「自分にお縄がかからないため」という、他人のためのふりをした自己防衛にしか過ぎないのではないか。ガイドラインやエビデンスはずるい。きれいな数値化されたデータをもとにしてできているから、それらに当て嵌まらない個々の臨床症例との対比において、至らない点があったときに、ガイドラインから大きく逸脱しているという点で断罪されるのだから。

患者は寝ている。麻酔科医は患者の代わりに患者を守る。患者の代弁をする。しかし、患者は麻酔科医でもない限り、幽体離脱して私と一緒に自分自身のバイタルサインをモニターで見ていたとしても、「ここでノルアドいけ~!」という判断は下せない。私は患者に良かれと思う医療行為を”想像して”知っている経験と知識を駆使して、私の想像範囲内において、薬をちょびちょび使いながら、時には輸血をポンピングしながら、その生命活動が少しでも潰えないように、少しでも寿命を縮めないように、少しでもストレスホルモンを出させないように麻酔をする。患者は自分の命を一時的に私に預ける。患者が意識していようが、無意識であろうが、寝た後の生命活動は大きく我々に委ねられる。

私が欲するのは、患者の僅かな不調の前兆も見逃さないvigilanceの眼。経験年数では遥かにベテランの先生方に劣る私は、その先生たちが見ている世界に少しでも追いつこうと日々躍起になっている。結果として行う麻酔行為が同じでも、どの時点で「それをやる可能性」を想像できるかという、実際の行為までの時間的余裕は各人において様々。行動を起こすまでに、一秒でも早く、考えうる病態と鑑別、治療法をきれいに取捨選択できるようになりたい。そして、自信をもって選択した行為に対しても、謙虚に「本当によかったのか」を見直せるような人間になりたい。というようなことをつらつらと手術室の監督をしているときに考えた。

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「私には責任がないから寝ている。責任があるものだけでなんとかしろ」ということが言えるのは、実は危機感がないからです。このまま座礁すれば、全員死ぬことになると思っていない。誰かがなんとかしてくれるだろうと思っている。他責的な人間というのは、実は無根拠に楽観的な人間でもあるのです。自分がいなくても何とかなると思っている。でも、「自分がいなくても何とかなる」というのは、危機の評価が低いということと同時に、自分が貢献できることについても、きわめて低い評価をしているということです。「自分なんかいても、何の役にも立たない」と思っている(ただし、これは意識化されていません)。被害評価の低さ(無根拠な楽観)と、自己卑下(無根拠な悲観)、この二つが「犯人捜し」に熱中する他責的な人々の特徴なのです。(街場の教育論 - 内田樹 p176より)

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救急救命士さん(女性)が外勤先の病院に気管挿管実習に来ていたのでちょっと話をした。曰く、救急車を呼ぶ7-8割の人々は「こんなので呼ぶなよ」系や「それって人としてどうなのか」系(常識的でない人間性が疑われる人々)らしい。救急車を呼んで病院に着き、時間外診療を受ける。後から消防署に感謝の手紙が送られてくることもあるけど・・・と救命士さんは話す。7枚綴りの手紙の1枚目には「本当にお世話になりました」と。残りの2-7頁には何が書いてあるかというと、「○○市に救急車で帰るのですから、私も乗せてくれればよかったのに、云々」といったことがくどくどくどくど。これを書く人には少なくとも「○○市に救急車が戻る際に、別件の救急要請が入り、自宅から遠く離れた場所にそのまま急行する可能性」についての想像力が完全に欠如している。しかも恐らく手紙をしたためたのは自宅に帰ってからであろうから、そのような喫緊でない環境下においてでも、である。自分を1人の人間として尊重してもらいたいのか、暇なのか、寂しいのか、理由は私には全く不明だが、手紙を書ける位元気なのだからまぁよかったですね、とも思う。もしかすると「高い税金を払っているんだから、救急車くらい自由に使ってもいいじゃないか」と思っているのかもしれない。この島国で健康に生きていると「命の修理にかかる金額は安い」と錯覚する人が少なからずいる。献血には一度も行ったことがないのに、家族が出血性ショックになり救命処置で輸血が間に合わないということに目くじら立てて訴訟を起こすような人もいる(勘違いしないでいただきたいが、献血をする人が偉いとは言っていないし、献血すれば何を言ってもよいとも言っていない。勿論献血をしない人には大量輸血の治療を受ける権利がないなどというつもりも無い。病院には輸血用の血液があるのが「当たり前」だという、その想像力の欠如を問題にしているのである)。日中に開業のクリニックにかかることが決して不可能ではないはず、にも関わらず、昼間は無理して働いて、夜間やっぱり具合悪いからと「歩いて病院に来ることが出来、自分の症状を自分の言葉で訴えられる程度に元気なのにもかかわらず」救急外来に平然とかかったりする。要するに、そこにある人・物資双方の医療資源の限界やルールへの想像力を全く働かせることなしに、自分が損をしたり被害を受けたという「狭い想像力」の中だけでモノを語るのは控えたほうがよいということだ。人は死ぬものである。

というようなことばかり言うのは、当直の外科医が「夜間歩いて来院できるような患者」の対応で睡眠時間を蝕まれ、翌日の予定手術で動脈一本でも無駄に損傷してほしくないからという理由からである。煩悩が多すぎて、とてもじゃないが仏にはなれない私。そんな私もきっと歩いて救急外来に行ってしまうのである。