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2011年11月5日土曜日

(本) 有事対応コミュニケーション力 - 鷲田 清一, 内田 樹, 上杉 隆, 岩田 健太郎, 藏本 一也 (技術評論社, 2011年)

3月の震災の3ヶ月後に行われたチャリティシンポジウムの内容を文字に起こした本です。本は大抵電車の中で読むのですが、帰宅途中の電車の中では読み終えられず、寝る時間を多少削って読了しました。そして一回読了した後に、時間をおいて、再度読了してしまいました。

本書で得られる情報に基づけば、テレビや新聞の情報を特に吟味しないで「あぁそういうもんなんだな」という態度で居続けるのは最早不可能でしょう。原発の問題で、いかに多くの情報がねじ曲げられて伝えられていたか。伝えられず隠匿されていたか。また、それらによって自分の行動や思考が規定されていたか。腹立たしい事この上ない。まぁ、そういう反応もまた、この本を読んで何も考えずに内容を盲信した結果にほかならないので、テレビや新聞で得られた反省を何も生かしてないに等しいのですが。

・震災後、まともな発言した多くの人たちが退場させられたこと
・既得権益、ポジショントーク、スポンサーとの利害関係、思考停止で事実は曲げられる
・情報格差社会は今後間違いなく社会の問題となっていくであろうこと(私的には既にそうなってるように思うけど)

結局本書に書かれた内容も疑ってかかって吟味した上で、自分の行動のエビデンスの一部とすべきかどうかを判断するのが正しいことだと思うのですが(そして本書の著者らもそれを望んでいる筈です)、情報の出どころに深くコミットできない私のような人間には、どの情報を信頼して良いのか分からない。本書の著者らのように、一見、信頼できる情報発信者の方々が発する情報が、いつも正しいか、それも分からない。でも、恐らく「常には」正しくない。そういうスタンスでいることは大事な気がします。

でも、テレビのニュースって小説のようだ。
何か事件が起こる。それを取材する。記者が思考停止のまま(もしくは不十分な知識のまま)咀嚼して文字に起こす。そして「こういう話に違いない」とニュースの原稿を作る人が考える。その時点で事実と大きく解離した物語が出来上がる。
タチが悪いのは、それらが一見本当であるかのような根拠を提示しつつ紡がれる物語だということ、児戯的な勧善懲悪思想が根底にあること。そしてテレビを通して悪性のウイルスのように市井にばら撒かれる。見ている方は”自分の頭で考えないと”そうだよなーと、コメンテータやニュースの内容が正しいものだというままに脳に刷り込まれてしまう。そして自分の行動もそれに規定されたものになってしまう。事実を巧妙に料理した物語を、人はいとも簡単に信じてしまう。小説家が書く小説を読んで、それに基づいた行動をすることはないのに。
「あれがおかしい、これがおかしい」とツッコミを入れながらみるテレビはある程度有益かもしれないが、いつもいつも「こういうふうに報道されているということは、事実はこういうことに違いない」と推理して、その推理が正しいかを毎回毎回自分で探索するのは骨が折れるったらありゃしない。
だから私自身は、現時点では、
・「テレビや新聞よりも信頼できるだろう」人たちが書いているであろうメールマガジン
・海外のニュースサイト(日本国内で発生した事故や事件と直接の利害関係がないだろう)
・「テレビや新聞よりも信頼できるだろう」人たちが書いているであろうブログの意見
などを適当に参考にして、咀嚼して生きている。
何が正しいのか分からないし、正しいものもないかもしれないし、そもそも人によって正しいと考えるものが違う。

テレビも間違った情報を流した場合には、謝罪会見をしたらどうだろうか。間違った報道で多くの人が傷ついたり社会復帰できなくなっているだろう。また、死に追い込まれる人も少なくないだろう。病院は、医療事故で一人の患者さんを不幸に陥らせるだけで徹底的に謝罪させられ断罪される。勿論、被害者の数の問題ではないし、医療事故を容認しろなどというつもりはない。私自身も容認などしたくない。病院が死に至らしめている患者さんの数よりも、メディアが無意識的に死に至らしめている一般市民の数の方が多いんじゃないだろうか…と思うのは私の妄想だろうか。
いずれにせよ自浄作用の働かない組織は腐敗していくだろうから、いろいろなことを時間が教えてくれるだろう。腐敗するのは勝手だが、国民を徹底的に知的に破壊するのは止めてもらいたい。でもしょうがないのかな、既に情報発信者たる大きなメディアが知的に破壊されているのだろうから。もし、知的に破壊されていないと主張する大きなメディアの方がいるのならば、本書の内容に1つ1つ反論するべきだろう。反論できないのであれば、矢張り、知的に破壊されているということでよろしいでしょうか。

そんなことをつらつらと考える一冊でした。