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2011年1月16日日曜日

(雑) 抄読会の英語 と (本) 先生はえらい

今更ですが。
論文の読みやすさというのは、「その分野についての予備知識がどれ位あるか」に随分依存しています。臨床麻酔に即した論文内容だと容易に訳せますが、基礎的な研究(たとえ麻酔科領域でも)実験手法とか、聞きなれない統計手技を多用していたりするともうお手上げに近い。
でもインターネットのおかげで、「分からない情報や単語」がどのようなものなのかを漠然とつかむことができるので、非常にありがたいです。大学図書館を通過しなくてもフリーで読める学術記事も多いし、Google scholarでもかなり情報収集ができます。
ただ、「収集できすぎる」のが問題です。学術記事だとしてもそれがどの程度信頼できるのか、という問題は、やはり情報収集者のリテラシーに掛かっています。
大学のレポートや小中学生が読書感想文に困ってネットにアップされている情報をコピー&ペーストすることが流行しているのは容易に想像できますが、それを繰り返せば、生きていくのに必要な「鋭利な知恵」とでも呼ぶべき人間の神経回路が徐々に萎縮していくでしょう。玉石混交の知識を取捨選択する知恵も大事ですが、「検索するのはこれくらいにして自分の頭で考えたら」という境界線をどこに引くかは非常に重要な問題です。

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過去の記事「Brugada症候群と麻酔」に情報を追加しました。(2010年4月25日)
確か麻酔専門医試験の過去問(2009年度だったかな?)にも出題されていました。
問題集では不適切問題になっていましたが。
大学病院での診療に従事する1つのメリットは抄読会等があり、「受動的姿勢でも信頼性の高い情報が収集できること」だと思います。

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「先生はえらい」(内田樹)を読みました。

・私たちがコミュニケーションを先へ進めることができるのは、そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。(p111-2)
・コミュニケーションを駆動しているのは、たしかに「理解し合いたい」という欲望なのです。でも、対話は理解に達すると終わってしまう。だから理解し合いたいけれど、理解に達するのはできるだけ、先延ばしにしたい」という矛盾した欲望を私たちは抱いているのです。(102)
・師が師でありうるのは、師がいかなる機能を果たすものであるかを、師は知っているけれど、自分は知らないと弟子が考えているからです。(171)
・学ぶ者の定義とは、「自分が何ができないのか」、「自分は何を知らないのか」を適切に言うことができないもののことです。(169)
・人間は自分が学ぶことのできることしか学ぶことができない、学ぶことを欲望するものしか学ぶことができないという自明の事実です。(37)
・どうしてプロを目指す人は後を絶たないのか?それは完璧な技術に到達しえない仕方が一人一人違うからです。(30)


本書を読むと、学校の教育現場が崩壊しているのは、「教えてくれるべきものを教師が提供してくれない」と、学生やその親たちが「私たちが授業料を支払っているのに」と支払ったお金に対する対価が十分ないという理由で、まるで消費者感覚で怒り出す、という構図からもきているように思えます(内田氏の他の著作で触れられていましたが)。 そこでは、学ぶ者たちの学びの主体性が失われています。国語でも数学でも英語でも、全て口を開けて待っていれば提供されるべきものと思っている。自分が鼾をかいて机に突っ伏して眠っていようが、「放課後どこで遊ぼうかな」と考えながら上の空で授業を聞いていても。教壇に立っている者が誰であれ、何を得るのかは学生に掛かっているのですね。学ぶことを欲望することしか学べないけれど、自分が何を知らないのか分からない人こそが学ぶ者である・・・というのは難しいことです。何かを渇望して、もやもやとした霧の中に手を突っ込んでふらふらと彷徨い歩くような態度が、学ぶ者に必要な基本的態度なのかもしれません。

となると「この病気の麻酔では何を気をつけたらよいのだろう?」と教科書や論文を検索し情報を得るという作業はこの「学ぶ」という定義から外れるのでしょうか?だってこの作業では「自分が何を欲望しているかわかっている」のですから。
臨床の必要性に迫られて教科書や論文を読む作業は、まさに「自分の医療行為に対してお金をもらうという"仕事"の一部」と言えます。ですから、それを怠れば給料泥棒ということになる・・・のかもしれません。もしそれで患者さんの予後に悪影響を与えればなおさらそうなのでしょう。(少なくとも所謂"識者"にそう批判されることを覚悟せねばなりません)

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