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2011年1月27日木曜日

(本) レヴィナス 何のために生きるのか ― 小泉義之

外勤に行った帰りの電車で読む。

速読できる人、というのはこのような本でも速読できるのでしょうか。私にはゆっくり読んでもなお意味不明な点が多々ありました。せいぜい分かったのは以下の点くらいでした。
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・他人に対する私の答えは、何であれすべてが、他人からの問いに対して、他人からの問いのために、発せられるから、そのかぎりでは、私の自由と責任は他人によって正当化される。他人からの問いかけと訴えに答えようとするかぎりでは、他人との関係においては、私は生きていてもよいし、生きていることが赦される。そのとき、私は、自分のためにではなく、他人のために答えようとするからである。それでも、厳しく見るなら、私は答えることをも享受するから、依然として自分のために生きている。そうではあるが、他人の抵抗に潜む「肯定的な構造」を見極めなければならない(p42)
・私たちが選択的中絶について思い悩むとき、生まれ育っていく未来の人間の苦痛を想像している。では、そのとき、私たちは何を想像していることになるのか。「人という存在のない苦痛といったもの、場をもたない苦痛といったもの」を想像しているのではない。そうではなくて、「苦痛をもつ存在」を想像しているはずだ。とすれば、そのとき、私たちは、本当のところは、「苦痛を凌駕する生」のことを想像しているはずだ。ならば、どうして、私たちは、その生存者を消去する選択を採用してしまうのか。その生存者は、たとえ私たちの想像にうちにおいてであれ、苦痛を凌駕する生存を享受しているのに。(立岩真也「私的所有論」からの引用 p54)
・<死んだら終わり><死ぬまでは頑張る>、そんな時間意識も、繁殖性を前提としている。どこかで人間が死んで、どこかで人間が生まれることを前提としている。そんな繁殖性を受肉の意味として受け止めながら生きて死んでゆくのであるとすれば、要するに、人間の根源的契約のために生きて死んでゆくのであるとすれば、この次元においては、何のために生きるのかという問いに対しては、来るべき他者のために生きて死ぬと答えることになる。(p99)
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本書で語られていることが理解できたり反駁できるようになるのは、単に「もう少し年をとったらわかるよ」という類のものではないような気がします。それについて必死に考え、悩み、それで漸く「年をとって自分なりに分かった気がする」といえるようなところに到達できるのでは、と想像。

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後期レジデントの先生方の麻酔力が上がってきていることが分かって嬉しいこの頃。そんな先生たちも当直の練習を始めています。私も一緒に当直する日がありますが、勘がよい先生方は私と同じ思考回路になってきているため、多くの処置を自発的にやってくれます。私は「彼らの自主性を妨げることなく、彼らが考え、行動する作業」を見守るという仕事が増えてきています。自主性を阻害することなく、かといって患者さんに害を与えないように処置を行う、というのはなかなか難しい。特に夜間の緊急手術においては。時間も患者さんの予備能も限られているからです。
自ら学びつつ(それも高学者のそれとは異なった低い次元で)、人に教えることの苦悩は、私を教えてくださった先輩医師たちにもあったに違いありません。教えてもらえるうちが花、怒られるうちが花とは言いますが、それが今、身に沁みて分かります。


知っていないと行動もできない。想像すらできないことが、行動に移されることなど、ほとんどありません。臨床麻酔を行うにあたって、学ばなければならないのはまさにその点です。ゆっくり調べれば分かることはひとまずおいといて、緊急時に冷静に体を動かさなければならない項目は、諳んじられ、かつ脊髄反射的にできるようなレベルに到達せねば。

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