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2010年2月12日金曜日

論語物語―下村湖人

下村湖人(1884-1955)は佐賀に生まれ明治~昭和を生きた小説家、社会教育家と言われている。
論語を書いた本は「原文、書き下し文、現代語訳」のような体裁をとるものが多い中、この本はまさに論語の中の言葉をもとに描いた「物語」である。それも一つの物語でなく、一冊の中に28の短編があり、非常に読みやすい。1938年に出版されたものとは思えないほど、読みやすい。

「お前は、自分で自分の欠点を並べ立てて、自分の気休めにするつもりなのか。そんなことをする暇があったら、なぜもっと苦しんでみないのじゃ。お前は、本来自分にその力がないということを弁解がましくいっているが、本当に力があるかないかは、努力してみた上でなければわかるものではない。力のない者は中途で斃(たお)れる。斃れてはじめて力の足りなかったことが証明されるのじゃ。斃れもしないうちから、自分の力の足りないことを予定するのは、天に対する冒涜じゃ。なにが悪だといっても、まだ試してもみない自分の力を否定するほどの悪はない。それは生命そのものの否定を意味するからじゃ」(62頁)

「足一歩門外に出たら、高貴の客が目の前にいるような気持でいるがよい。人民に仕事を命ずる場合には、宗廟の祭典にでも奉仕するつもりでいるがよい。そして自分の欲しないことを人に施さないように気をつけよ。そしたら、邦に仕えても。家にあっても、怨みをうけることがないであろう」(122頁)

「人間の正しさは、人間相互の愛を保護して育てていくことにあるのです。法律も法律なるがゆえに正しいのではなく、それが人間と人間との関係を、愛に満ちたものにすることができる限りにおいて、正しいのです。このことを決してお忘れになってはなりません。ことに、親子の愛は愛の中の愛であり、人間界の一切のよきものを生み出す大本なのです。それを法律の名によって、平気で蹂躙することを許すような国に、正しい道が行われていよう道理はありません。」(204頁)

「君子にも行き詰まることがある。しかし君子は濫(みだ)れることがない。濫れないところに、おのずからまた道があるのじゃ。これに反して、小人は行き詰まると必ず濫れる。濫れればもう道は絶対にない。それが本当の行き詰まりじゃ。」(224頁)