集中治療医学会に参加するために東横線に乗ってパシフィコ横浜に行く。平日だというのに大勢の医師・看護師・臨床工学技師がいる。それぞれ職場から「行ってきていいよ」と許可されて来ている人たちの集まりである。発表者でなければ、パチンコに行こうがスパに行こうが咎められないであろうにも拘らず、何百、何千という人たちが一堂に会し、何らか知恵や知識を吸収しようとする姿勢に一人感動する。
メリトクラシー(meritocracy)というのは、努力するものに報いる制度である。それは誰でもその気になれば努力することができるということを前提としている。しかし、「その気になれば」というところに落とし穴がある。というのは、世の中には、「その気になれる人間」と「その気になれない人間」がおり、この差異は個人の資質ではなくむしろ社会的条件(階層化)に深くリンクしているからである。(内田樹 知に働けば蔵が建つ p64)
この文脈で言うと、おそらく私が学会会場で見かけた人々は、社会的条件に多分に恵まれた人々である(本人が意識しようとしまいと)。1-3時間の教育講演やシンポジウムに言葉を発することもなく、物音も立てず、じぃぃっと演者の言葉やスライドに耳や目を集中させることが、少なくともこの瞬間においてはパチンコやスパに勝っているのである。たとえ演者の話が途中で迂遠なものになり、初心者向けの講演と言いつつ無闇に略語を断りなく使い出し、「発表スライドの推敲してないだろ、もしかしてやっつけ仕事なのか?」とスライドの誤字脱字が妙に気になりだし、白背景に黒字のシンプルなパワーポイントに妙にイライラして、なぜか文字のフォントも小さく、箇条書きであるべきところがだらだらと数行に渡る文章になっていてアカデミックな内容であるか否か以前に発表の仕方をもう少し工夫して欲しいと僭越ながら思ってしまったり、仕舞いには「この演者は自分の語る言葉にどれくらいの情熱を傾けているのか」について懐疑的になってきたとしても、その場に座り続けることを選んでいるのである(それは私だけかもしれないが)。
自分が何かもの申すときは「時間×その場に居合わせた人の数」分の時間を、ありがた~く頂戴して喋っているのだ、ということに改めて思いを馳せた1日だった。