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2010年8月27日金曜日

街場のメディア論に思うこと

例えば小沢氏が「代表選に出馬する」という事実を、マスメディアから聴いたときの反応。
―なんて恥知らずな私利私欲の行動
―結局国益は無視か
―マスメディアは「対決」が大好きだから、また喜んで報道している
など。
これらは、どれも自分独自の反応ではなく、どこかで誰かに刷り込まれた反応である。これに限らず、日ごろ考えていることの多くは、どこかで誰かに刷り込まれたものである。それが残念なのか、喜ばしいことなのかは私にはよく分からないが、兎も角もそうなのである。
小沢氏に関して言えば国民の8割程度は代表選に出ることに不支持という意見らしい。不支持率が8割、である。けれども民主党内には150人超の彼の派閥に属する議員がいる。そして、議員辞職すると言っていた、およそ3ヶ月前まで首相だったあの人も、小沢氏を支持するという。
三歩歩けば、ではなく、三ヶ月たてば全てなかったかのように忘れてしまうのである。10億円の親からの相続("世間では"揶揄して子供手当てと言われている)を貰っていたり、政治資金収支報告書への虚偽記載の件で検察審査会沙汰になっていたり、秘書が逮捕されたりしていたことの責任は「1回首相と幹事長を辞任すること」でリセットされるのである。リセットして、臆面も無くマスメディアを通して国民の前に出てくることができるのである。私ならば恥ずかしくて出てこられないが、それくらいのキモの太さがないと、国政には携われないということなのである。
想像力が完全に欠如しているこれらの行動を、私はどう考えればいいんだろう。
勝手にやってくれ、って多くの国民が思っているのかもしれないが、このような状態にしたのは、有権者の責任でもあるから根が深いのである。国政は誰がやっても同じ、という意見の方もあろうが、高速道路を無料化したり、高等教育費を無料化したり、はした金(経済効果が不明という意味での)の子供手当てを国債発行してまでばらまいたり、円高を傍観していたり、韓国に謝罪の談話を発表したり、夫婦別姓や外国人参政権を認める法案を通そうとしていたり。そういうことは「誰がやっても同じ」か?

どこかで誰かに刷り込まれたであろうこれらの意見。結局のところ、メディアを通して得られた「一次資料かどうかも分からないような情報」を、政治の素人である私の頭で編集し直しただけなのである。メディアが選択的に編集した「○○市の30代主婦の声」などなどの街の人の声や「適切な文脈で使われているにも拘らず、センセーショナルな部分だけを抜き出して公表された政治家の発言」に少なからず、影響されているのである。

分かりやすく言えば「脳出血の妊婦が何十の病院をたらい回しにされた」「産婦が手術による出血多量で亡くなった」「麻酔科医が硬膜外に局所麻酔薬を入れすぎて患者が術中死した」という報道があったとする。医療者であれば「またメディアが医療崩壊につきすすむ医療者バッシングの偏向報道を繰り返している」という反応が極めて自然に出てくる。報道しか価値判断のリソースがない非医療者の方々は「けしからん、なんて病院だ、なんて医者だ。酷すぎる、人の命を何だと思っているんだ。血も涙もないのか、怠慢だ。それで医者か、さっさと辞めちまえ。」という反応をするだろう。

情報のリソースが同じ「メディア」である以上、私の政治への反応もそれと同じなのではないか、ということを思うのだ。
情報のリソースが同じなだけに、私の民主党への反応は、政治家たちの実情とかなり解離しているのではないか ― 私はそれを思うのだ。
そして、その正誤を確かめる程にまでは、自分の時間や興味を持ち合わせていないのである。そこまでするくらいならば麻酔のことを考えたり、本を読んだり、走ったりしたいのである。

だから、以下の言葉を心に刻んでおこう。

・せめて僕たちにできることは、自分がもし「世論的なこと」を言い出したら、とりあえずいったん口を閉じて、果たしてその言葉があえて語るに値するものなのかどうかを自省することくらいでしょう。自分がこれから言おうとしていることは、もしかすると「誰でも言えそうなこと」ではないのか。それゆえ、誰かに「黙れ」と言われたら、すぐに撤回してしまえることなのではないのか。(街場のメディア論-内田樹, 103頁)

・自分が語っている言葉の中に「命が危うくなると知るやたちまちそれを否認する」ような言葉がどれくらい含まれているか、その含有率について、ときどき自己点検するくらいのことはしてもよいのではないかと僕は思います。(同106頁)