今年読んだ本の中でも、非常に感銘を受けた本の1つ。たった600円でパラダイム・シフトが起こるかも(と、損得で物事を考える私も現代的な価値観に塗れた俗物である)。
(以下引用。太字は自分でつけたもの)
・欠けているのは、「自分の持っている知識」は、「どのような知識であり、どのような知識でないか」についての認識、自分自身の「知っていること」と「知らないこと」をざっと一望俯瞰するような視点、ひとことで言えば、「自分の知識についての知識」なのである。(12頁)
・「決断というのは、できるだけしない方がよいと思います。といいますのは、『決断をしなければならない』というのはすでに選択肢が限定された状況に追い込まれているということを意味するからです。選択肢が限定された状況に追い込まれないこと、それが『正しい決断をする』ことより、ずっとたいせつなことなのです」(117-8)
・結婚は快楽を保証しない。むしろ、結婚が約束するのはエンドレスの「不快」である。だが、それをクリアーした人間に「快楽」をではなく、ある「達成」を約束している。それは再生産ではない。「不快な隣人」、すなわち「他者」と共生する能力である。おそらくそれこそが根源的な意味において人間を人間たらしめている条件なのである。(153)
・結婚を「損か得か」のタームで考えることは、「快楽」の貨幣でしかものごとの軽重がはかれなくなっている「近代の病徴」なのだということに、そろそろ気がついてもよいと私は思う。人間を真に「人間的」なものたらしめているのは快楽ではない。「受難」である。(153)
・あまり知られていないことだが、「やり直しが利く」という条件の下では、私たちは、それと知らぬうちに、「訂正することを前提にした選択」、すなわち「誤った選択」をする傾向にある(167)
・想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。(216)
・今の若い人たちに欠けているのは「生きる意欲」ではなく、実は「死への覚悟」なのである。「生きることの意味」が身にしみないのは、「死ぬことの意味」について考える習慣を失ってしまったからである(243)
(引用終わり)
特に結婚についての考察は、結婚というものの本質をついているような気がする(ネガティブな意味ではなく)。自分の知識やものの考え方のスキーム(枠組み)は、これまで過ごしてきた自分の周りの環境によってのみ決められる。本書で語られるようなことの1つ1つは、私の知的スキームを広げることに大いに役立った。 普段ぼんやりと頭の中にあった(かもしれない)ことを分かりやすい表現と例えを使って、説いてくださった著者に非常に感謝したい。
結婚で思い出した。
何かのメールマガジンで見かけたのだが、女性に嫌われる男の代表的5Kは
「汚い、暗い、くさい、怖い、堅い」
だそうだ。だが、これは男→男でも女→男でも女→女でも当て嵌まることだろう。汚くて暗くてくさくて怖くて堅い人を好きになる人を見てみたいが。
項目が5つあることから何故か思い出したのが、Langeronらによるマスク換気困難の危険因子(Anesthesiology 2000; 92: 1229-36.)
「1.55歳以上、2.肥満(BMI>26)、3.ヒゲの存在、4.歯がない、5.いびき」
マスク換気困難は1-5のうちどれか2つ以上で感度は0.72, 特異度は0.73。上記嫌われる5Kについても同じような感度、特異度かもしれない(汚いとくさいはそれだけで0.90を超えそうな気もする)。
結婚といえば「婚活」。この言葉が世に広まって久しいが、わざわざ単語化されるほど特別な行動なのか私には疑問である。全ての恋愛行動は多かれ少なかれ結婚に繋がっている気がするが(本人たちが意識しているにせよ無意識にせよ)。それ程現在においては結婚自体が特別な行動になっているのか、或いは婚活という言葉だけが存在し、実態がないものなのか。まぁどうでもいいか。
とぼぉ~っと考えていたのだが、
「勝間さん、努力で幸せになれますか」の香山リカ氏によると
「婚活」という言葉が普及して、ますます結婚はほかの資格や収入と同じ次元のものになってしまいました。努力の対象となったわけですよ。(124頁)
私にはこの言葉の真偽が分からないし、また、調べようとも思わない。だが、上記内田樹氏の考察を踏まえるならば、婚活者は「結婚は快楽を保証しない」という思考が抜け落ちていて、「結婚すれば何があっても味方してくれる絶対的な存在ができるはずだ」と思っているから挫折を繰り返す・・・?(ただの私の妄想か)
だが、それについても内田氏は含蓄に富むことを書いている。
一緒に暮らす他者と、あなたは気持ちが通じないこともあるし、ことばが通じないこともあるし、相手のふるまいのひとつひとつが癇に障ることだってある。そして、こう思う。「この人が何を考えているのか、私には分らないし、この人も私が何を考えているのか、分っていない」それでオッケーなのである。結婚というのは「そのこと」を骨身にしみて経験するための儀礼なのである。(中略)自分を理解してくれる人間や共感できる人間と愉しく暮らすことを求めるなら、結婚をする必要はない。結婚はそのようなことのための制度ではない。そうではなくて、理解も共感もできなくても、なお人間は他者と共生できるということを教えるための制度なのである。(同161頁)
夫婦はつまるところ
「趣味?音楽聴くこと。もう朝から晩まで!」
「わ、ほんと?私もよ。ねえ、何聴いてるの?」
「私? マリリン・マンソン。あなたは?」
「……スピッツ」
と、音楽の話題は開始後三秒で終わってしまう。(同12頁)
のような関係でも成り立つものなのである。多分。