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2010年12月31日金曜日

(映) 独裁者 The Great Dictator (1940) ☆☆☆☆

Charlie Chaplin初のトーキー映画。ヒトラーのナチズムをパロディにした危険なコメディ映画です。

数年前に買ったDVDですが、漸く見ることに成功しました。
大戦後に公開されたものだとばかり思い込んでましたが、しっかり戦時中に公開されています。(そしてヒトラーもこの映画を見たことがあるようです。ちなみにチャップリンとヒトラーは誕生日がたった4日しか違わないらしい。同い年だったのですね)

白黒映画ですが、「映画というものが好きでよかった」と思える映画愛に溢れた作品です。今年は映画を数本しか見ませんでしたが、最後の締めがこの作品でよかった。


***
今年も多くの患者さんと、同僚と、先輩方々と後輩方々と、手術部の看護師の方々、外科医の先生方には大変お世話になりました。電車内で居眠り中の私の鞄や財布を盗まなかった人、私の乗った電車・飛行機・バスを安全に運転してくださった方々、またはそれらに追突してこなかった方々、私の食べ物に致死性の毒物を入れなかった人、庶民レベルでの「日本円」の価値をそれ程変化させなかったことに尽力してくださった人、電気・ガス・水道のライフラインの維持に関わった全ての人、その他挙げればキリがありませんが、本当に1年間ありがとうございました。

(雑) 部外者は口をだすことすらできないのです(其の二)

平成21年の警察庁の調査では小中高校生の自殺者は306人だということです。

本日の新聞第1面によると
「子供の自殺に歯止めをかけるため、小中学校や高校の授業に自殺予防教育を導入することを文部科学省が検討している」
とあり、記事を読むと
「予防教育は、自殺について深く考えさせること、相談機関や医療機関の情報を知らせることが柱。ひどく落ち込んだときには誰かに相談し、友達から『死にたい』と打ち明けられたら信頼できる大人に伝えるといった対策を教える」
とあります。

***
小中高生の自殺の主因はいじめです。

「いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか」(内藤朝雄著)によると
いじめの加害者は、いじめの対象にも、喜びや悲しみがあり、彼(彼女)自身の世界を生きているのだ、ということを承知しているからこそ、その他者の存在をまるごと踏みにじり抹殺しようとする。いじめ加害者は、自己の手によって思いのままに壊されていく被害者の悲痛のなかから、(思いどおりにならないはずの)他者を思いどおりにする全能の自己を生きようとする。このような欲望のひな型を、加害者は前もって有しており、それが殴られて顔をゆがめるといった被害者の悲痛によって、現実化される。(P.77-78)

このようないじめが繰り返され、死ぬこと以外に救いがなくなり、自殺に至ると私は想像します。だとすると上記の提言「ひどく落ち込んだときには誰かに相談」という項目は、いじめに耐え続ける自殺予備軍状態の子供に対して、「誰かに相談する」という、いじめれている子供に対して更なる努力を求めた暴言のように思えます。
一日中ベタベタと共同生活することを強いられ、心理的な距離を強制的に縮めさせられ、さまざまなかかわりあいを強制的に運命づけられる「過酷な政治空間」である学校(p164)において、自殺予防教育にどれ程の効果があるのでしょうか。
友達から『死にたい』と打ち明けられたら信頼できる大人に伝えるといった対策を教える」
とは即ち、「オマエちくっただろ」と言われてその子供もいじめの標的になるということです。私には「信頼できる大人が『なに!それはたいへんだ!』と何らかのリアクションを起こしていじめ問題をなくそうと躍起になって周りの大人たちを上手く巻き込んで解決しましたとさ、めでたしめでたし」、というストーリーよりよっぽど納得しやすい話です。それどころかその正義感でいっぱいになった大人も、その学校コミュニティーの一員であれば、何らかの形で村八分的な制裁を食わされる可能性が高そうです。

凄惨ないじめでも自殺の報道でもテレビで流れていれば、「可哀相」という一定の同情を短時間示すだけ。次のチャンネルにかえて、お笑い番組で笑うのが一般的な人々の反応です。「いじめは悪いこと」なんて一般論として子供も大人も皆知っています。自分の所属するコミュニティでいじめ問題があっても「自分の子供は関係ない」ということであれば、自分や自分の子供が次の標的になるリスクを背負って、いじめ問題解決に奮闘する、という構図は私にはとっても想像し難いです。

***
個々の自殺の事例に関しては、私が何をいう資格もありません。亡くなった子供たちが、それまで歩んだ物語を私は全く知らないし、それに想像力を働かせるのも困難です。ですから適当なことを語る気はありません。私に見えるのは、メディアというフィルターを通し、誰かに加工された情報だけです。

そしてその情報は「子供が自殺をした、いじめがあった、校長の責任だ、担任の責任だ。」という報道です。伝える側も分かりやすいし、見ているほうも分かりやすい物語です。
私がそのような報道に接するたびに感じるのは、
「この報道を見ている自殺寸前状態にある子供が、この報道が自殺を達成する後押しとなる可能性についてはどうなのだろう」
ということです。
そのような状態にある子供が、自殺を成し遂げた子供の報道をテレビやネットニュースで見て、「死ぬとこういう風に報道されるのか、いじめていた側や学校側がこういう風に言うのか、私が死んだときにもこういう風に、テレビを見ている人みなが私がいじめれられていたことを知ってくれるのか」という気持ちになり、報道によって死への大きな一歩を踏み出す原動力を得たりはしないのでしょうか?

***
内藤朝雄氏の提言どおり、「一般社会でやったら犯罪として逮捕されることを、学校社会でも同様に適応する」方に、役人の方々の努力を向けた方が自殺者数は減るような気がします。

(音) 2010年に聴いた曲のまとめ

最もよく聴いた11曲です。もしくは魅力を再発見した曲。
この他にもいっぱいありましたが、今年は充実していました。

曲名/アーティスト名 (アルバム/発表年) の順。
・New Jerusalem / Orphaned Land (The never ending way of Orwarrior / 2010)
・Lost in Life / Sirenia (The 13th floor / 2009)
・Na Na Na (Na Na Na Na Na Na Na Na Na) / My Chemical Romance (Danger Days: The True Lives of the Fabulous Killjoys /2010)
・Who is Mr. Madman? / Helloween (7 sinners /2010)
・VINUSHKA / DIR EN GREY (UROBOLOS /2008)
・Gateways / Dimmu Borgir (Abrahadabra /2010)
・Orchestral Fantasia / 水樹奈々 (GREAT ACTIVITY /2007)
・Shape / Sugababes (Overloaded /2006)
・Die Young / Black Sabbath (Heaven and Hell /1980)
・死んだ女の子 / 元ちとせ+坂本龍一 (Orient /2005)
・Sisters / Pain of Salvation (Road Salt One /2010)

2010年12月30日木曜日

(映) グラン・トリノ Gran Torino (2008) ☆☆☆☆

久しぶりに映画を見ました。
友人が薦められてくれていたにも拘らず、しばらく放置してしまいました。

愛妻に先立たれ、息子たちともきちんとコミュニケーションをとれない、朝鮮戦争帰りの人種差別主義者で頑固者の老人の物語です。
「超・字幕」で英語と日本語の字幕を同時に追っていたため物語に没入できていたかは不明ですが、非常に有意義な時間になりました。


1番印象的な場面は、主演のクリント・イーストウッドが息子に電話するところ。
話したいことがあるのに、本題に入れずうじうじしている。

そのうちに
「...so if you there's not something pressing...」
と仕事が忙しい息子に(特に急ぎの用がないならあとにしてくれよと)言われ
「No. No, not at all」
と、自分の容態が思わしくないことすら、息子に上手く打ち明けられない。
血痰を吐くほど具合が悪いのに、です。

クリント・イーストウッド自身が歌うエンディング曲がはまりすぎているのはよいのですが、劇中、悪いやつらの登場シーンはなぜかヒップホップが流れてくる。このように使われるヒップホップという音楽に同情してしまいました。(まぁメタルも似たような扱われ方をしますが)

2010年12月29日水曜日

(雑) 部外者は口をだすことすらできないのです

呼ばれない当直のときほど、仕事が進む場面はありません。

***
大学生の就職難がメディアでよく取り上げられています。
何十社も就職試験を受けるなんていうことを聞くと、私がその立場だったら確かに生きているのも嫌になりそうです。
毎日受け続けても数ヶ月かかるわけですよね?しかも企業ってそれぞれ目標とか理念とか求めている人材とか違うわけでしょうし。学生さんはそれぞれに合わせて毎回試験対策して受け続けるのでしょうか?凄まじい気力が要求されます。試験を受け続ける根性を何か1つの研究テーマにだけ費やせば、偉業が達成されるに違いありません。
致命的なミスを侵さない限り、職業の安定が保障されている私のようなものの視点からは、大学生の就職難という問題について何を申し上げても「上から目線」とか言われる可能性が高いです。それこそ「格差社会の弊害を語っているのが、実は金持ちばかり」と批判される様に。
ですので、言いたいことには9割方口を噤むことにします。
就活の時間が十分取れないからと言う理由で、大好きな学問をするために英国への短期留学を辞めてしまう学生さん、というのを以前テレビで見ましたが、本当に本末転倒だと思います。

数だけで言えば大企業の倍率が非常に高いだけで、中小企業はむしろ企業が学生を集めるために必死になっている、という図式が成立しているようです。
そして、その統計から「中小企業にこそ就職のチャンスあり」といって学生さんに葉っぱかける専門家の方々はいますけど、個々の学生さんからすればやっぱり大企業に就職したい人が多い。倍率が高いけど、大企業がいい。中小企業は就職しやすいかもしれない。でも中小企業に内定して就職したとしても、何をやっている会社なのかいちいち人に聞かれるたびに「~~~という部品の国内シェアナンバーワンの企業です」という説明をするのは面倒くさいし、格好悪い。親の受けも悪い。親の受けが悪いからといって内定を辞退する学生もいるという。そんな事態を受けて、中小企業は親に対して就職説明会を開催していたりする。私には意味の分からない世界です。一般的に医者は世間知らずと言われているから、世間のそんな動向が、私には分からないのでしょうか。

そもそも大企業志向なのはなぜなのか?ということを考えてみたいのですが、安定した収入、肩書きの他に「楽しても上に上がれるような気がする」ということにあるんじゃないかと思います。それなりに先人が築いたキャリアアップのための道筋ができていて、それに乗っかって努力すれば上にいけるという甘い見通しがあるんじゃないでしょうか。上に上がるのには血が出るくらいの努力が必要でしょうが、その努力の向け方の青写真があるかないかというのは、努力が日常化している人にとっては雲泥の差です。青写真があれば、努力を苦と思わないような人には至って楽な道のりでしょうから。本当に大変なのは「どのように努力したらいいかわからない」ともがいている第一線の研究者のような人たちです。

しかし、日本の新卒採用に海外からの留学生を受ける枠はどんどん広がっているし、いまや英語ができるだけではさっぱりアドバンテージになりません。留学生は英語を生きるためのスキルとして身につけているし、彼らは「プラスアルファ」の特技を持っていることが多いですから。
将来の安定が約束されていそうだから、或いは大企業のほうがチャンスが多そうだから、という妄想で大企業を選択する人は今や少数派と思いますが(おそらく親世代が大量にリストラにあっているのを見ているでしょうし)、分相応の人生戦略を考え直したほうがいいように私も妄想します。
内定をもらえる学生はそれこそ何社からももらえると聞きます。ということは何十社も落ちるような学生さんが、就職留年なりして入社できたとしても、その何社からも内定をもらえるような企業が求める優秀な人材たちに出世の道を取られる可能性が非常に高いです。そのような環境で業績をあげないとならない過酷なストレス下で仕事をし続けることが安定した生活を指すとは私には思えません。

とりあえず、日本に生きていると、ほとんどの方々が屋根のある暖かい部屋に住むことができて、食事もきちんととることができる。就職活動のための塾やセミナーに通うためのお金を親に払ってもらうことができる。新卒じゃないと就職に不利になるからと言って就職留年のための大学の授業料費用100万円以上を肩代わりしてもらうことができる。 それって十分幸せで恵まれていることだと思います。
曽野綾子氏の「貧困の風景」を読んでからNHKの討論番組を見ていたらそんなことを不遜にも考えてしまいました。しかし、貧困は住む世界ごとに定義が変わるので、就職できずに苦しんでいる人々には非常に同情いたします。私がそのような方々にできるとしたら、彼らが急病を患い手術が必要になったときに、必要な麻酔の処置を行うことだけです。

***
そんな就職難に見舞われた大学生に使えるかどうかは分かりませんが、「街場の大学論」に興味をひくことが書いてありました。


大学院生の面接も、学生の社会的成熟度を見るという点では、就職試験と少しも変わらない。私がビジネスマンだった場合にその学生が来年四月から来る「新入社員」として使えるかどうか、それを基準に私は院生を査定している。「使える」というのは何か特殊な才能や技術を「すでに」有しているということにではない。
「まだ知らないこと」を「すぐに習得する」ことができるかどうかである。学部教育程度で身につける学術的な知識情報のほとんどは「現場」では使いものにならない。
だから学部教育が無意味だというようなことを言っているのではない。見なければいけないのは、大学でその知識情報を身につけるときにどのような「ブレークスルー」を経験したか、である。
(途中略)この知識技術を身につけておくと「金になる」とか「就職に有利」とか「偉そうにできる」というような幼児的な動機で勉強している学生は、どれほど努力しても、それこそ体が壊れるほど勉強しても、それによっていかなるブレークスルーも経験することがない。(p201-202)


就職活動が大変すぎて、大学で何を教わる暇があるのか、私にはよく分かりません。
その点、医学生は非常に恵まれています。「就職できないかも」と心配することはないでしょうし、自由時間の相当の部分を学問に割くことができるのですから。

2010年12月26日日曜日

(本) KAGEROU ― 齋藤智裕

Amazonのレヴューで大炎上していたので、逆に興味をもって読んでみました。

話の内容はファンタジーです。作中の人物はどこかで聞いたような一般論としての「世界や人生の不条理」に対して批判的なことを随所で語ります。辟易する人には辟易する描写かもしれません。また例え(~のように)の表現も多く、文章が逐一しつこく感じられる、というのも一理あります。
これがプロ(ここでは、私がこのブログに書いているような、無料の玉石混交~主に石~の情報の垂れ流しではなく、それを発表することで生計が成り立つだけの収入が得られるかどうか、を取りあえずの「プロ」と定義します)の作品かどうかと言われると微妙ではあります。

ですが。
最後のページまでページをめくり続けさせる力があったという点においては、私は本書を評価したいと思います。つまらないお話であれば、最後のページまで読めません。もっとも私の評価などどうでもよいでしょうけれど。10000文字(原稿用紙25枚程度)の論文ですら、書き上げるのに数ヶ月かかる私には、このように商業ベースに乗せられる作品を、大きな破綻なく書き上げることだけで尊敬に値します。(破綻してるって。という批判をする人は、作品に対する愛が足りない人です。医師として読むと一般常識的には破綻だらけですが、小説が事実の羅列であれば、私は読みたくありません。手回しの人工心臓のくだりとかその他色々突っ込みどころがあって楽しめます)。
「著者が容姿の優れた俳優という肩書きがあったからとれた賞なんじゃないか」とか、「大賞を取って2000万円の賞金に値する価値があるのか」とか。そういう批判だったらいくらでもできます。他に批判する対象は、いまの世の中いくらでもあるような気がします。

適切なブラッシュアップによってさらによい作品が生み出されることを、私はひそかに期待したいと思います。

2010年12月25日土曜日

(走) Training in Rena (其の八十七-八)

23th・・・3km(23min, 8km/h, 傾斜6-9)
25th・・・3km(23min, 8km/h, 傾斜6-9)
total distance: 649.0km (Oct 66.6km, Nov 52.2km, Dec 42.2km)
total time: 4029min = 67h09m

2010年12月24日金曜日

(本) 2010年に読んだ本のまとめ

特に順番には意味はありません。読んだ本の内容はさておき300冊/年を達成できたのは、300冊を目標としたからでしょう。

1.論語物語 / 下村湖人
2.マイナス思考法講座 プラス思考をやめれば人生はうまくいく / ココロ社
3.街場の現代思想 / 内田樹
4.喜嶋先生の静かな世界 / 森博嗣
5.走ることについて語るときに僕の語ること / 村上春樹
6.スピード・オブ・トラスト / スティーブン・M・R・コヴィー
7.残念な人の仕事法 / 山崎将志
8.目に見えないもの / 湯川秀樹
9.犠牲 / 柳田邦男
10.組織行動の「まずい!!」学 / 樋口晴彦
11.老いの才覚 / 曽野綾子

今年は「自分の想像力がいかに限定されたものか」をよく知ることができた年でした。この本の一覧に日本語で書かれた本しかないということもその1つです。自分の知らないものには想像力をはたらかすことすら出来ないということを自覚するだけでも、私にとっては大いなる進歩でした。

2010年12月20日月曜日

(走) Training in Rena (其の八十三~六)

ハーフマラソン以降の記録。右膝の調子をみつつ。
2km(10min )3km(20min )3km(22min)2km(15min, 傾斜6-9) 
total distance: 643.0km (Oct 66.6km, Nov 52.2km, Dec 36.2km)
total time: 3983min = 66h23m

そういえば11月下旬から歩数計をポケットに忍ばせて歩いています。
4週間ほど使用してみました。ランニング日は1万歩は軽く超えますが、それ以外の日では8,000歩程度の日が多いことがわかりました。
自分がファーストの麻酔担当医として麻酔をかける日はおよそ7000-9000歩。
逆に
・2件以上の麻酔の指導を行うような日
・インチャージ(手術室の麻酔全体を監督する仕事)の日
・当直日で夕方の時点で数件の全身麻酔が残っているような日
には有意に多く、12000-15000歩くらい稼げます。私が落ち着きなく動いているせいもあるのかもしれませんが。健康のためには毎日でもインチャージや当直をやるとよいようです。その場合、精神的に相当疲弊しそうですが。

2011年3月42.195km:板橋Cityマラソン(あと88日)

2010年12月17日金曜日

(本) 書いて生きていくプロ文章論 ― 上阪徹

書く、発表する、伝える。そんなさまざまなアウトプットのヒントが書かれている本です。ライターがどのようなことに気を遣って書いているのか、その一端を垣間見ることができます。

・文章を書く前に、誰に向けての文章なのか、できるだけ具体的にイメージしてみてください。その瞬間に、使う言葉やトーンがすぐに浮かんでくるはずです。そうすれば、文章はずっと書きやすくなります。ターゲットは、自分で作ればいいのです。(p.33)
・数字をうまく使って程度を理解してもらう。(51)
・形容詞は使わない。数字や事実を意識する。それだけで文章は変わっていきます(51)
・走ることは人生に似ている、と書いた作家の方がおられましたが、私は走ることは仕事に似ている、と思ったのです。 別に3周走ることは義務ではないのです。2周でやめてもいいし、途中で歩いてもいい。簡単です。でも、最後まで苦しいけれどあきらめず、止まらず、走り抜いたとき、なんともいえない達成感と心地よさが広がるのでした。これはまさに仕事と同じだと思いました。途中で「これでいいかな」「もういいんじゃないか」と思いつつ、やっぱりもうちょっと粘ってみようと考えてみる。(315-6)

***
敬意や信頼感を得るためには「相手が感謝すること」を相手にも見える形で誤解がないように働きかけることが必要です。意図してごまをすったり演技をするということではありません。私はあなたを気にきにかけているのですよ、ということを、自分が心の中で思っているレベルまで、言動で相手に伝えることが大事ということです。
心の中で思いやることはできるでしょう。ただし、その思いやることを相手に積極的に伝えることは人との生活や仕事において、とても大切なことではないでしょうか。それが感謝でもお小言でも。
文字は一人歩きするので、話し言葉以上に思いやりの心が必要だということを、本書で再確認しました。

2010年12月14日火曜日

(麻) i-Gel

大学院入試の願書をようやく提出。入学試験に必要な書類を集めるのがこんなに面倒だと感じたことは、未だかつてありませんでした。

***
i-Gel memo
・ラテックスフリー
・大きめの方がフィットしやすい
・#3:30ー60kg、#4:50ー90kg、#5:90kg以上 (#4で問題ないことが多い)
・コネクタの気管内チューブ対応内径
 #3:6.0mm, #4:7.0mm, #5:8.0mm
・胃管は#3、4は12Fr, #5は14Frまで

しばらく前から私の職場でも使用可能でしたが、興味がなかったわけではなく、適切な患者さんの麻酔を担当する機会がなかったので、初体験がのびのびになっていました。しかも、自分で挿入するより先に指導する方が先なんて、第三者からみたら言語道断かもしれませんが、事実なのだから仕方ないのです。玄人に尋ねても「いれればいいんだよ。誰でも入る」と言われてしまう始末。
幸いにして初体験はジャストフィット。非常によい麻酔管理ができました。
その後、何度か自分でも使用してみましたが、確かにLMAより簡単な気がします。カフを何ml入れればいいかと悩まなくてよいところがいいです。患者さんの口の中に手を入れなくても挿入可能なのに、ついつい習慣で口の中に手を突っ込んでしまいそうになる自分がいます。

2010年12月13日月曜日

(本) "させていただき"たがる私たち

今日は
「バカ丁寧化する日本語 敬語コミュニケーションの行方 - 野口恵子」
です。
著者は複数の大学で日本語とフランス語を教える教育者のようです。本書の著者同様、「させていただく」に違和感が多い私。

硬膜外麻酔を施行するときに
「お背中を消毒"させていただき"ますね~」と、患者さんに声をかけたり
外科医への術前の麻酔科コンサルトに
「予定通り全身麻酔で管理させていただきます」という返信文書を書いたり
患者さんに服を脱いでもらうときに
「お着物取ら"させていただき"ますね~」という、ナースの方々の言葉に
いつももやもやしているのです。

患者さんや目上の医師に対して無礼を働いてはならないという無意識が、彼らをそのような言葉遣いに仕向けるのでしょう。ですが、果たして本当に相手に敬意をもって使っているのか疑問です。

本書の全5章のうち、まるまる1章(p17-63)が「させていただく」の違和感について割かれています。
著者によると
「させていただく」は本来、私が何かをする。それはあなたが許可してくれたからだ、そのことを私はありがたいと思っている、という意味を込めて使われるものだ(p24)

ということです。それを「このテレビ局のアナウンサーを5年やらせていただき大変感謝しております」のようなコメントを、テレビでアナウンサーが視聴者に向けてするのはおかしいといいます。視聴者がそのアナウンサーに"許可を与えた"わけではないからというわけです。
確かに著者の主張には非常に共感できますが、敬語のレパートリーが少ない私は、時々「させていただきます」に逃げてしまいます。

私が本書を読んで思うのは「させていただく」に「このように不快感を感じる人」がいるということです。それを認識し、その不快感によって不利益を被る覚悟があるのであれば「させていただく」を多用してもよいのではないのかもしれません。

しかし、本書のハイライトは第5章「変わるコミュニケーション」です。言葉について語っているはずの本書が、この章では言葉を通して現代社会のマナーの悪さについて言及しています。

***
・硬直した決まり文句には、想像力の入り込む余地がない。一人一人が自分の頭で考えようとしても、マニュアルがそれを阻止してしまうかのようだ。(193)
・技術の完成されるのはそれが技術たることを止めるときのみである。この時に無技巧の完成が存し、人間の奥底の誠実がおのずから現れるが、これが茶の湯における「敬」の意味である。敬は、それゆえ、心の誠実か、単純さである。ー鈴木大拙「禅と日本文化」(北川桃雄訳)(218)
・高齢の女性が、「ペースメーカーを入れているので、電源を切ってもらえますか」と一人一人に頼んでいるのを見たことがある。言われたほうは素直に応じるか、または場所を移動するかしていたが、駅でメンバーの入れ替えがあるたびに、女性は同じ言葉を繰り返さなければならなかった。これはもう、鉄道会社の力の及ぶところではない。携帯電話は全機種にマナーモードの機能が備わっているが、人間にはその機能が「標準搭載」されていないということなのだろう。(220)
・この人物を、常識がない、マナーを知らない、と非難するのは簡単だ。(221)
・この人に欠けているのは、マナーを守ろうという意思もさることながら、想像力だ。周りを観察することをせず、自分を客観視できない。収集した情報に基づいて自分の頭で考えることをしない。したがって、的確な判断が下せない。よって行動を改めることもできない。その結果、周りの人に迷惑をかけ、人から冷たい視線を浴びせられ、同行者にも気まずい思いをさせることになる。しかし、本人は全く気がついていない。(221-2)
・他者に敬意を払うというのは、気づくことから始まる。(略)・・・たとえ普段は敬老精神のある若者だったとしても、観察力がないと、非常識な人間というレッテルを貼られる恐れがある。(222)
・東南アジアから来た一人の学生の母国では、たった今強盗を働いてきたような人間でも、老人に席を譲るという。(224)
・親しい人にはひっきりなしに謝るのに、なぜ他人に対しては何も言わないのか(229)
***

どんな言葉を吐き出すにしても、想像力が欠如した言葉は相手に届かないのです。それが医師にとっての決まり文句の「お大事にしてください」だとしても、場面や口調、相手の置かれている状況を意識して使わないと、元気な患者さんはもとより、本当に大事にしてほしい患者さんには尚のこと伝わらないでしょう。

2010年12月12日日曜日

(麻) 脳死臓器移植関係メモ

脳死が私に接近した一件で、私が感じた違和感を少しでも解明してみようと、真剣に考えてみました。不自由な私は、人が考え、つづったものを拠り所にしないと、思考の幅を広げることもおぼつかないのです。

「命は誰のものか」(香川知晶著)によると脳死という死は臓器移植ありきの概念だったという歴史を知ることができます。

「犠牲」(柳田邦男著)は息子の脳死に向き合った記録を作品化したものですが、外勤先に行く電車の中で読むには、かなり重い内容でした。医療を提供する側になると、医療を受ける側の思考法を忘れがちになります。だから医療を受ける側から書かれた作品を読むのは、自分の仕事を見つめなおす意味で、非常に大切な経験となりました。

<以下「犠牲」より引用>
・現代人の死は、しばしば個人の営みの範囲で終わることなく、それ自体の中に社会的な意味がこめられている(p21)
・語りたきことなどありと思えども友と並べばただ黙すのみ(123)
・「提供者が医療に参加するのを医師が手伝う」(145)
・死にゆく者の命も、臓器移植を待つ者の命も、等価であるはずなのに、脳死・臓器移植論のなかでは、死にゆく者の命=患者・家族全体を包む精神的ないのちのかけがえのない大切さに対しては、臓器移植を待つ者の命の千分の一の顧慮も払われていないからだ。(148)
・救命できない場合でも、医療者には大事な仕事があるはずです。(199)
・indestructibility(破壊し得ないこと)(208)
・人間の心はわからないところがある。つまり物語らないとわからないところがある、と私は思うのです。(河合隼雄他「河合隼雄その多様な世界」岩波書店)(240)
・「いのちの唯一の目的は成長することにある」(286)
***

以下は専門医試験対策としてのまとめ。実技試験で「じゃあ脳死判定して下さい」なんて言われたりして。

脳死関連
・1997年に臓器の移植に関する法律施行、2010年改定
・1999年に第1例目が施行

* 2010年改訂の変更点
(1) 年齢
改正:12週未満(在胎週数が40週未満であった者にあっては、出産予定日から起算して12週未満)の者。12週未満は脳波における信頼性がない。(生後12週以上では脳死判定ができ、臓器提供が法律上可能になった。)
(2)体温
直腸温32度未満の場合、脳死判定から除外されていた
改正:6歳以上はこれまでどおり。6歳未満の小児では35℃未満の場合、脳死判定の除外条件
(3) 血圧
旧法:血圧90mmHg未満は脳死判定から除外
改正:1歳未満は65mmHg、1歳以上13歳未満は(年齢×2+65)mmHg、13歳以上は90mmHg未満の血圧が脳死判定から除外される条件となった。
(4) 脳死判定間隔
6歳以上は、これまでどおり最初の脳死判定から6時間以降に2回目の判定が行われるが、6歳未満においては24時間以降に2回目の判定を行うことになった。

@概念
・脊髄レベルでの制御機構が機能する
・副腎皮質放出ホルモンや成長ホルモン放出ホルモンが副腎髄質、消化管、膵臓に分布していて視床下部以外の由来もある
@判定医
・脳神経外科、神経内科、救急医、麻酔科、集中治療医で学会専門医または学会認定医の有資格者
・脳死判定に関し豊富な経験を有するもの
・臓器移植に関わらないもの
@必須条件から ・・・1~3が満たされない場合は判定を開始しないこと
1.前提条件を完全に満たす
・器質的脳障害で深昏睡か無呼吸
・原疾患の確実な診断
・回復の可能性が全くないと判断されること
2.確実な除外診断
3.生命徴候の確認
・体温:深部温32度を超えること
・血圧:sBPが90mmHg以上
・心電図:重篤な不整脈がないこと
4.必須事項の確認
 ・深昏睡
 ・瞳孔径4mm以上、瞳孔固定
 ・消失する脳幹反射(①対光反射②角膜反射③眼球頭反射(人形の目反射)④眼球前庭反射(カロリック反射)⑤咽頭反射⑥咳嗽反射⑦毛様脊髄反射)
 ・平坦脳波(聴性脳幹反応の消失は必須ではないが確認が望ましい。少なくとも4導出の同時記録を単極導出および双極導出で行う。つまり電極は8誘導以上。 46A95)
 ・無呼吸テスト

@無呼吸テスト:下部脳幹機能としての自発呼吸の有無を確認する検査。CSFpHの低下で刺激される
・PaCO2 20mmHgの変化でCSF pHが正常(7.32-36)から7.18以下になり、呼吸中枢に対して強力な刺激となる。
・PaCO2 80mmHgまで直線的に上昇、以後増加程度は減少。150mmHgがピーク。95mmHgを超えると中枢抑制作用が出現。
・目標PaCO2レベルは60mmHg。80mmHgまでの上昇にとどめるのが望ましい。(アシドーシスで循環に影響を与えるため)
・体温が高い方がPaCO2は上昇しやすい(38-9℃で6mmHg/min以上)

@ドナー管理の注意点と呼吸・循環モニターの目安
・脱水を避ける
・尿崩症(6割程度の患者に合併) :血中の抗利尿ホルモンのレベルの低下 →高Na血症と低K血症が起こるので4ml/kg/hを超えるようならADH 1-2U/hで投与検討
・神経原性肺水腫:酸素化低下
・sBP100mmHg(MAP≧70mmHg)
・尿量:100ml/h (1-1.5ml/kg/h)
・Hb濃度:10g/dl
・CVP 5-10mmHg
・ScvO2 ≧ 60%
・CI ≧ 2.4L/min/m2
・SVR 800-1200dynes・s/cm5
・呼吸器:VT 8ml/kg, PEEP 5-15cmH2O, PIP ≦ 30cmH2O
・SpO2 > 95%,  酸素分圧(PO2):100mmHg程度
*その他の脳死に関連する知識

・ステロイド(メチルプレドニゾロン1g程度)で移植臓器の抗炎症、酸素化改善、肺血管外水分量減少などが期待できる。ただし、インスリン分泌低下による高血糖と相まって血糖コントロールが不良になるので、血糖値を適正に管理する必要あり

@昇圧薬 ・ノルアドレナリン(NE)、アドレナリン、ピトレシン:慎重投与。
 NE≧0.05γは予後増悪の可能性あり。
・ドパミン、ドブタミン:15γ未満がよい。可能な限り少なく。
・PDEIII投与は臓器提供の適否に影響しない
・感染がある場合は当該臓器の提供は禁忌

@手順
・カニューレを挿入。ヘパリン2-3万単位を投与
・非脱分極性筋弛緩薬を投与
・摘出順:心臓→肺→肝臓→膵臓/脾臓→腎臓→小腸→リンパ節→腸骨動静脈→腕頭動脈→内頚動静脈
・肺摘出時は 吸入酸素40%以下(可能なら)、摘出までは換気を継続する
・低血圧時には昇圧薬より輸液を優先。膠質液を投与する → 外科とコミュニケーションが重要
・選択すべき昇圧薬は一般にドパミン
・脳死患者の徐脈はアトロピンに反応しない(Miller日本語p1738)ため、イソプロテレノールを準備。フェニレフリンによる徐脈も起こらない。
・鎮痛は必要ない。が、血行動態安定のために吸麻や麻薬が使われることもあり
・筋弛緩薬は使用する(脊髄を介する反射経路が維持されている場合がある)

***

脳死を判定する立場としては、目の前の患者さんは三人称で語るべきなのでしょうが、二人称としての脳死患者さんに接することができれば、私は自分自身が満足できそうです。

・法的脳死判定マニュアル
http://www.jotnw.or.jp/jotnw/law_manual/law5.html

2010年12月5日日曜日

(走) Training outside (其の八十一と八十二) ~ いたばしリバーサイドハーフマラソン

2ヶ月半ぶり、今年2度目のハーフマラソンです。
都営三田線「西台」という駅から会場まで15分ほど歩きます。
荒川河川敷にある会場の設営はしっかりなされています。更衣室も荷物置き場もあります。貴重品もA4程度のビニール袋を渡されますので、それを持っていけば預かってくれます。
ただ仮設男子トイレが長蛇の列になっていましたので、トイレは早めの利用がよいかもしれません(仮設トイレの近くに公園のトイレを運よく発見してしまったので、私はそちらを使いましたが)。

非常に天気は良好。道はほぼ平坦。
6kmあたりを過ぎると建設中のスカーツリーも遠方に見えました。
10km過ぎの折り返し地点でのタイムは48分。非常に順調。
練習不足の割にいいペースでした。このままいけると思いました。

今回私が走れたのは17km過ぎまで。17km地点は85分で通過しました。
しかし突然走れなくなったのです。吐き気と左大腿のハムストリングス、前脛骨筋の痛みとともに足が止まりました。走る直前まで読んでいた「夜と霧」のどんな過酷な場面を思い返しても、樺太で大戦を過ごしだ祖父を慮っても、何に思いを馳せても、足は走ることをやめてしまいました。

その後歩いた4km弱。一体何百人に走り去られたことか。

喪失感と屈辱でいっぱいになりながらゴールしました。多くのランナーに抜かされることよりも、走ることを止めてしまった足に対して悲しい気持ちになりました。
歩いても制限時間内にゴールできるような場所まで走れていたのは不幸中の幸いでした。

今後、マラソンの道半ばで歩いている人の気持ちにちょっとだけ想像力を使えるようになった、貴重な経験となりました。
練習不足だったのは確かですが、それだけで今回の結果になったとは思えません。3ヵ月後のフルマラソンへ大きな不安を残した今年最後の公式大会となりました。

Saturday 5.2km 34min (9.1km/h, 11℃)
Sunday 21.095km 2h06m56s (10-15℃)
total distance: 633.0km (Oct 66.6km, Nov 52.2km, Dec 26.2km)
total time: 3916min = 65h16m

2011年3月42.195km:板橋Cityマラソン(あと105日)

2010年12月4日土曜日

(音) モーツァルトのレクイエム

を聴きに教会にいってきました。
同じ映画は何回も見ませんが、「アマデウス」は何故か1年に1回くらいは見てしまいます。

ジュスマイアー版のムーティ指揮のものを聴きなれてしまっていた私には、今日聴いたアレンジはいささかテンポが速く軽いものに感じられました。
とはいえ、生で聴くLacrimosaには背筋がぞくぞくしました。

2010年12月3日金曜日

(本) 人を助けるとはどういうことか ― エドガー・H・シャイン

・支援を申し出たり、与えたり、受け入れたりする前に、自分の感情と意図をよく調べること
・支援しようという努力が快く受け入れられなくても、腹を立てないこと。(p.235)
・支援を求める人は気まずい思いをしているということを思い出そう。だからクライアントの本当の望みは何か、どうすれば最高の支援ができるかを必ず尋ねること。(p.236)
・純粋な問いかけからつねに始めるべきである。(p.244)

上記はほんの一握りですが、この本は、その題名どおり「人を助ける」ということに纏(まつ)わる諸問題が様々な角度から論じられています。

先日読んだ「イシューからはじめよ」にも書いてありましたが、私がリスクマネージャとして日々、麻酔に関連した色々なインシデント事案から学ぶのは「一次情報を大事にせよ」ということです。当事者以外から情報を聞いてからインシデント事案の現場に行くと、とるべき行動の判断に非常にノイズが入るのです。可能な限りニュートラルな状態で事案に接しなくてはならない場面において、興味本位の第三者の情報には、有害なノイズが含まれている可能性があるということを意識していた方がよいことがあります(有害というのは提供される情報自体が、ではなく、あくまでも私がとりたい公正な判断に対して、です)。そのようなことをつらつらと考えさせられた1週間でした。