本日の新聞第1面によると
「子供の自殺に歯止めをかけるため、小中学校や高校の授業に自殺予防教育を導入することを文部科学省が検討している」
とあり、記事を読むと
「予防教育は、自殺について深く考えさせること、相談機関や医療機関の情報を知らせることが柱。ひどく落ち込んだときには誰かに相談し、友達から『死にたい』と打ち明けられたら信頼できる大人に伝えるといった対策を教える」
とあります。
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小中高生の自殺の主因はいじめです。
「いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか」(内藤朝雄著)によると
いじめの加害者は、いじめの対象にも、喜びや悲しみがあり、彼(彼女)自身の世界を生きているのだ、ということを承知しているからこそ、その他者の存在をまるごと踏みにじり抹殺しようとする。いじめ加害者は、自己の手によって思いのままに壊されていく被害者の悲痛のなかから、(思いどおりにならないはずの)他者を思いどおりにする全能の自己を生きようとする。このような欲望のひな型を、加害者は前もって有しており、それが殴られて顔をゆがめるといった被害者の悲痛によって、現実化される。(P.77-78)
このようないじめが繰り返され、死ぬこと以外に救いがなくなり、自殺に至ると私は想像します。だとすると上記の提言「ひどく落ち込んだときには誰かに相談」という項目は、いじめに耐え続ける自殺予備軍状態の子供に対して、「誰かに相談する」という、いじめれている子供に対して更なる努力を求めた暴言のように思えます。
一日中ベタベタと共同生活することを強いられ、心理的な距離を強制的に縮めさせられ、さまざまなかかわりあいを強制的に運命づけられる「過酷な政治空間」である学校(p164)において、自殺予防教育にどれ程の効果があるのでしょうか。
友達から『死にたい』と打ち明けられたら信頼できる大人に伝えるといった対策を教える」
とは即ち、「オマエちくっただろ」と言われてその子供もいじめの標的になるということです。私には「信頼できる大人が『なに!それはたいへんだ!』と何らかのリアクションを起こしていじめ問題をなくそうと躍起になって周りの大人たちを上手く巻き込んで解決しましたとさ、めでたしめでたし」、というストーリーよりよっぽど納得しやすい話です。それどころかその正義感でいっぱいになった大人も、その学校コミュニティーの一員であれば、何らかの形で村八分的な制裁を食わされる可能性が高そうです。
凄惨ないじめでも自殺の報道でもテレビで流れていれば、「可哀相」という一定の同情を短時間示すだけ。次のチャンネルにかえて、お笑い番組で笑うのが一般的な人々の反応です。「いじめは悪いこと」なんて一般論として子供も大人も皆知っています。自分の所属するコミュニティでいじめ問題があっても「自分の子供は関係ない」ということであれば、自分や自分の子供が次の標的になるリスクを背負って、いじめ問題解決に奮闘する、という構図は私にはとっても想像し難いです。
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個々の自殺の事例に関しては、私が何をいう資格もありません。亡くなった子供たちが、それまで歩んだ物語を私は全く知らないし、それに想像力を働かせるのも困難です。ですから適当なことを語る気はありません。私に見えるのは、メディアというフィルターを通し、誰かに加工された情報だけです。
そしてその情報は「子供が自殺をした、いじめがあった、校長の責任だ、担任の責任だ。」という報道です。伝える側も分かりやすいし、見ているほうも分かりやすい物語です。
私がそのような報道に接するたびに感じるのは、
「この報道を見ている自殺寸前状態にある子供が、この報道が自殺を達成する後押しとなる可能性についてはどうなのだろう」
ということです。
そのような状態にある子供が、自殺を成し遂げた子供の報道をテレビやネットニュースで見て、「死ぬとこういう風に報道されるのか、いじめていた側や学校側がこういう風に言うのか、私が死んだときにもこういう風に、テレビを見ている人みなが私がいじめれられていたことを知ってくれるのか」という気持ちになり、報道によって死への大きな一歩を踏み出す原動力を得たりはしないのでしょうか?
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内藤朝雄氏の提言どおり、「一般社会でやったら犯罪として逮捕されることを、学校社会でも同様に適応する」方に、役人の方々の努力を向けた方が自殺者数は減るような気がします。