今日は
「バカ丁寧化する日本語 敬語コミュニケーションの行方 - 野口恵子」
です。
著者は複数の大学で日本語とフランス語を教える教育者のようです。本書の著者同様、「させていただく」に違和感が多い私。
硬膜外麻酔を施行するときに
「お背中を消毒"させていただき"ますね~」と、患者さんに声をかけたり
外科医への術前の麻酔科コンサルトに
「予定通り全身麻酔で管理させていただきます」という返信文書を書いたり
患者さんに服を脱いでもらうときに
「お着物取ら"させていただき"ますね~」という、ナースの方々の言葉に
いつももやもやしているのです。
患者さんや目上の医師に対して無礼を働いてはならないという無意識が、彼らをそのような言葉遣いに仕向けるのでしょう。ですが、果たして本当に相手に敬意をもって使っているのか疑問です。
本書の全5章のうち、まるまる1章(p17-63)が「させていただく」の違和感について割かれています。
著者によると
「させていただく」は本来、私が何かをする。それはあなたが許可してくれたからだ、そのことを私はありがたいと思っている、という意味を込めて使われるものだ(p24)
ということです。それを「このテレビ局のアナウンサーを5年やらせていただき大変感謝しております」のようなコメントを、テレビでアナウンサーが視聴者に向けてするのはおかしいといいます。視聴者がそのアナウンサーに"許可を与えた"わけではないからというわけです。
確かに著者の主張には非常に共感できますが、敬語のレパートリーが少ない私は、時々「させていただきます」に逃げてしまいます。
私が本書を読んで思うのは「させていただく」に「このように不快感を感じる人」がいるということです。それを認識し、その不快感によって不利益を被る覚悟があるのであれば「させていただく」を多用してもよいのではないのかもしれません。
しかし、本書のハイライトは第5章「変わるコミュニケーション」です。言葉について語っているはずの本書が、この章では言葉を通して現代社会のマナーの悪さについて言及しています。
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・硬直した決まり文句には、想像力の入り込む余地がない。一人一人が自分の頭で考えようとしても、マニュアルがそれを阻止してしまうかのようだ。(193)
・技術の完成されるのはそれが技術たることを止めるときのみである。この時に無技巧の完成が存し、人間の奥底の誠実がおのずから現れるが、これが茶の湯における「敬」の意味である。敬は、それゆえ、心の誠実か、単純さである。ー鈴木大拙「禅と日本文化」(北川桃雄訳)(218)
・高齢の女性が、「ペースメーカーを入れているので、電源を切ってもらえますか」と一人一人に頼んでいるのを見たことがある。言われたほうは素直に応じるか、または場所を移動するかしていたが、駅でメンバーの入れ替えがあるたびに、女性は同じ言葉を繰り返さなければならなかった。これはもう、鉄道会社の力の及ぶところではない。携帯電話は全機種にマナーモードの機能が備わっているが、人間にはその機能が「標準搭載」されていないということなのだろう。(220)
・この人物を、常識がない、マナーを知らない、と非難するのは簡単だ。(221)
・この人に欠けているのは、マナーを守ろうという意思もさることながら、想像力だ。周りを観察することをせず、自分を客観視できない。収集した情報に基づいて自分の頭で考えることをしない。したがって、的確な判断が下せない。よって行動を改めることもできない。その結果、周りの人に迷惑をかけ、人から冷たい視線を浴びせられ、同行者にも気まずい思いをさせることになる。しかし、本人は全く気がついていない。(221-2)
・他者に敬意を払うというのは、気づくことから始まる。(略)・・・たとえ普段は敬老精神のある若者だったとしても、観察力がないと、非常識な人間というレッテルを貼られる恐れがある。(222)
・東南アジアから来た一人の学生の母国では、たった今強盗を働いてきたような人間でも、老人に席を譲るという。(224)
・親しい人にはひっきりなしに謝るのに、なぜ他人に対しては何も言わないのか(229)
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どんな言葉を吐き出すにしても、想像力が欠如した言葉は相手に届かないのです。それが医師にとっての決まり文句の「お大事にしてください」だとしても、場面や口調、相手の置かれている状況を意識して使わないと、元気な患者さんはもとより、本当に大事にしてほしい患者さんには尚のこと伝わらないでしょう。