既に岩波文庫の斎藤忍随氏の翻訳版を何回も読んでいたのですが、いつの間にか新しい翻訳が出版されていたので購入しました。150年以上読まれているような著作は、どなたが翻訳したものでもその価値が褪せません。
本を読めば読むほど馬鹿になる…それは認識していましたが、私のような凡人には、考える拠り所が必要です。その拠り所は別に本でなくても良いのですが、私には本が必要です。
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だから資料の寄せ集めで出来上がった本はできるだけ読まないようにすべきだ。とはいえ完全に避けるのはむずかしい。数世紀にわたって蓄積された知識をわずかなスペースにおさめた資料編纂的書物も、やはり資料の寄せ集めで出来上がった本だからだ。 p36
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麻酔に関する話しか私には言及できませんが。私は、「ひと様が研究して集めたデータで出来た論文」を寄せ集めて書かれた論文なり雑誌なりを目にする機会が多いです。私が先日「臨床麻酔」誌に投稿した論文なんてまさにその例の1つです。
数年前にI先生からいただいた言葉がこだまします。
自分のデータをもつことが、何よりも大切だ、と。
自分で基礎研究に従事するようになって、初めてその言葉が身にしみてきました。
これだけ、他から影響を受けないだろう実験系においても、色々と訳の分からない結果が出る。ということは、ひと様を対象とした研究では、一体どれだけの因子が結果に影響を及ぼしているのだろう、と。
各種ガイドラインは、前向きRCTを中心として作られていますが、それだって信じられません。何故かというと、自分が経験していないからです。「自分が経験したことしか信じられない」とまでは、今の私には断言出来ませんが、それでも論文のabstructだけ読んで何かを学んだ気になんてなれません。
幾つもの追試追試追試で再現性が得られたものが教科書になる…ということを考えるけれども、最新版の「Miller's Anesthesia」にさえ、「出血して失われた血管内容量を補填するためには、晶質液では3倍量が必要だ」とか書いているわけです(近年、それに対して否定的な論文が多いのは皆さんご存知のとおりです)。そしてそれを金科玉条の如く、専門医や指導医がレジデントに教えているところに出くわすことがあります(3倍輸液するのがいいとか悪いとか、そういう次元の話ではなく、論文や教科書にこう書いてあるからそれが正しい、という、そのスタンスが問題だということです)。
麻酔をして、医療事故に遭遇した時。色々なガイドラインから大きく逸脱していないこと、周りで「それって常識だよね」というpracticeから大きく逸脱していないこと。これらは裁判で敗訴しないためには必要でしょうが、ホントにそのpracticeが目の前の患者さんのためになっているのか。それをよくよく考える必要があるな、と、この本を読みながらつらつらと考えました。
目的地に到達していないだろうという自分の切望だけが、自分を前に進めている気がします。そしてそれを実感できる日々は、仕事人としての自分の人生にとっては、とても幸せなことのような気がします。
自分の働きを、周りの人は評価するでしょう。良くも悪くも評価しているでしょう。でも、その働きぶりが、本当にいいものなのか好ましくないものなのか。それをほんとうの意味で評価できるのは自分だけです。