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2013年6月9日日曜日

(雑) 想像力の大海を泳ぐ日々

最近、色々な出費があるので、今必要かな…と、購入にあたって幾許か逡巡したのですが、結局購入しました。ものを買う時に、自分以外の誰かの役に立つかも…と少しでも思えて、しかも自分の懐に少しでも余裕があるならば、それは購入してよいものな筈です。


といっても購入したのは、ただの聴診器です。大学生協のお店の方に尋ねたら「5月のうちに注文してくれれば安く購入できます」と言われたので購入することにしました。
働き始めてから大学病院で常勤で働いていた2年と少し前までの間、学生の時に買った聴診器をずっと使っていたのですが、いつの間にか紛失していることに最近気づきました。
ということで、麻酔の仕事に行く時には、聴診器を鞄に入れて持ち歩くことにしました。
荷物が1つ増えましたが、これは必要なものです。

今更聴診器?という批判をする方も当然いらっしゃるでしょう。呼吸機能検査、血液ガス、経胸壁心エコー検査、既往で心肺機能に異常なし、の患者さんに聴診器を当てる意味があるのかという意見もおありでしょう。
ですが、今私にとってこの聴診器は、患者さんと、より、きちんと向きあうためのツールです。いつか、もしかしたら、手術前に検査を何1つ受けてない状態の患者さんの麻酔を担当する機会もあるかもしれません。
その時に頼りになるのは、誰かが決めたどのくらい信用に足るのかわからないガイドラインでも著名な先生たちが執筆した教科書でも電カル上に浮かんでくる基準範囲内の数値でも、そのどれでもありません。
自分の体に染み込んだ「患者さんを評価するための感覚」、それだけです。自分の判断で行った麻酔で、予想した結果が得られなかった時に「教科書通りにしたんだけどなぁ」とか「上の先生に言われたとおりにしたんだけどなぁ」とか「外科の先生が…」とか言ってる時点でプロとしては失格だと思います。イチローがヒット打てなくて言い訳しないし、ももクロがうまく歌えなくて言い訳しないし、村上春樹が書いた小説が批判だらけだとしても。それらに対して言い訳しているのを見たことがありません。彼らほどのレベルに到達できないとしても、麻酔という行為でお金をもらっている以上、何か足りなかった時に言い訳はできません。
そう自分に言い聞かせ、能力や努力はまだまだ足りないながら、だからこそ少ない麻酔の機会を最大限の学びの場にする。そう思って聴診器を購入しました。幸い術前診察で聴診器を胸に当てられるのを嫌がる患者さんにはまだお会いしていません。ありがたいことです。

以下は、2012年3月25日のログで引用させて頂きましたが、再掲。

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待つことには、偶然の(想定外の)働きに期待することが含まれている。それを先に囲い込んではならない。つまり、ひとはその外部にいかにみずから開きっぱなしにしておけるか、それが<待つ>には賭けられている。ただし、みずからを開いたままにしておくには、閉じることへの警戒以上に、努めが要る。<待つ>は、放棄や放置とは別のものに貫かれていなくてはならないからだ。 <待つ>は偶然を当てにすることではない。何かが訪れるのをただ受け身で待つということでもない。予感とか予兆をたよりに、何かを先に取りにゆくというのではさらさらない。ただし、そこには偶然に期待するものはある。あるからこそ、なんの予兆も予感もないところで、それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ。その意味で、<待つ>は、いまここでの解決を断念したひとに残された乏しい行為であるが、そこにこの世への信頼の最後のひとかけらがなければ、きっと、待つことすらできない。いや、待つなかでひとは、おそらくはそれよりさらに追いつめられた場所に立つことになるだろう。何も希望しないことがひととしての最後の希望となる、そういう地点まで。だから、何も希望しないという最後のこの希望がなければ待つことはあたわぬ、とこそ言うべきだろう。( 「待つ」ということ ― 鷲田清一、角川選書、2006年 p18-19)

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ゴールデンウィーク明けからずっと取り組んでいた仕事が、仕事かどうかわかりませんが、ようやく一区切りつきそうな気配がしてきました。
この仕事は、私にとっては全く初めての仕事なので、どのようにやれば上手くいくのか、全然見当がつきませんでした。かといって、周りにその仕事を経験した友人や知人もあまりおらず、日々手探りで進めてきた感じです。勿論、私の行為を応援してくれる何人かの優しい友人のお陰でここまで来られました。本当に感謝しています。

そういう感じで1ヶ月ほど生きてきて、今日、ふぅ、と一息ついたときに、ふと、鷲田清一先生の、上の言葉が私の中に戻ってきて、あぁ、やっぱりそういうことなんだなぁ、と得心しました。この1ヶ月ほど、みずからを開いたままにしておくことができただけでも、私は私の成長に感動しています。

鷲田清一先生の仰る意味でかどうかわからないけれど、待つことができるくらいには大人になったんだなぁ。