8月も半分過ぎました。空は相変わらず青いのですが、外を歩くとそこら中に蝉の死骸を見つけてしまいます。1週間前にはそんなことはなかった気がしますので、時間は同じ早さで前に進み続けているようです。
1週間が終わり、そして始まりました。今日までのこの1週間は、私個人にとって8月最大の山場でしたが、何とか乗り越えることができたような気がします。時間に換算すると、ルーチン化した技術や知識による活動が90%、新しいチャレンジによるものが10%程度の1週間でしたが、後者の10%を経験させていただけたお陰で、自分にとってどんな課題があるのか、少し見ることができました。機会を与えてくださった皆さんに感謝したいと思います。
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映画館に行きました。数年ごとに映画に対する愛が戻ってくるようですので、その流れに任せて足を運んでみました。
映画が始まると、どこかで聴いたようなBGMが流れてきました。
イギリスの超有名なロックバンド「Muse」(ミューズ)の現時点での最新アルバムに収録されている「The 2nd Law: Isolated System」でした。
「アルバム制作中に、僕は『ワールド・ウォー Z』の本を読んでいたんだ。だから、ある意味理想的だよ。当時は映画について何も知らなかった。ただ、人から素晴らしい本だと言われて読んでいたんだ」と彼(注:マシュー・ベラミー)はMTV Newsに伝えた。(MTVJAPAN.COMより引用)
ということのようですし、それを知らずにブラッド・ピットが彼らの曲をサウンドトラックに起用したいと思ってのことのようでした。
今日見た映画のタイトルは「ワールド・ウォーZ」(World War Z, アメリカ, 2013年)です。この映画の監督はマーク・フォースターという方で、ダニエル・クレイグの「007 慰めの報酬」(2008年)やジョニー・デップの「ネバーランド」(2004年)といった作品の監督でもあります。
僕は「Z」が何を意味するのかよく分からず劇場に足を運んだのですが、Zombie、すなわちundeadのZだったのでした。究極の世界大戦、という意味で「Z」なのかと思いましたが、そうではなくて、ヒト対ゾンビ、即ち「living V.S. living dead」だったという訳です。
なるほど、ブラッド・ピットほどの男が主演する映画で、「World War Zombie」とわざわざタイトル付け直す訳にいかないですものね。そもそもこの映画の原作自体(World War Z: An Oral History of the Zombie War)というタイトルのようですし。
しかし、この映画。ゾンビ映画か、と思うと途端に見る気をなくす方も多いと思いますが、最初から最後の数分手前まで、全く息をつかせないテンションですよ。前回ご紹介した「アイアン・フィスト」とはまるで次元が違う映画です。映画自体を「単なる暇つぶしでしょ?」と言われる方にとっては全く同じ次元の映画なんですが、好きな映画嫌いな映画などをお持ちの方にとっては、違う次元の映画になると思います。
頭部を撃ったり破壊すると活動を停止する設定自体は、この何十年かのゾンビ映画の伝統に則っていますが、ゾンビに噛まれたヒトがゾンビ化するまで10数秒と極めて早いこと、そしてゾンビになった後の運動能力が極めて高い(つまり異常な速さで走る)こと、などは、これまでのゾンビ映画とやや趣を異にしていると思います。走るゾンビといえば、2005年のゾンビ映画「ドーン・オブ・ザ・デッド」や昔の「バタリアン」などが思い出されますが、それらの映画のようなコミカルさが、この映画にはまるで感じられませんでした。
それにしてもブラッド・ピットがゾンビ映画の主演、プロデュースをする日が来るなんて、想像していませんでした。確かに彼は1994年の映画「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」で吸血鬼になったこともありますし、翌年1995年の「12モンキーズ」ではウイルス学者の息子である精神疾患的なジェフリー・ゴインズ役を演じたこともありましたから、ゾンビと戦う日が来ても不思議ではなかったのかもしれません。
この映画はあとでもう一度見直したいと思いますが、手垢にまみれたゾンビ映画の新たな地平線の一部を作った作品かもしれない―そんな嬉しい驚きを与えてもらった一作になりました。まともなスプラッタシーンが殆ど無いにもかかわらず怖い映画でした。
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ブラームスの音楽を聴きに行きました。
曲目は「ピアノ協奏曲第1番」です。1857年。ヨハネス・ブラームスが24−5歳の時に完成させ初演が行われた作品です。まだこの作品に触れたことがない方には、是非とも触れていただきたいのですが(と言っても私自身、この1、2ヶ月前から聴き始めたばかりです)、楽曲自体に孤高の輝きが宿っていることは勿論ですが、下の本を読むと、この曲の作られた背景に言葉を失いそうになります。
少し長いですが引用させていただきますと、
1856年7月29日、ドイツ・ロマン派の巨匠ロバート・シューマンは、七人の幼児を最愛の妻クララに残して47歳の生涯を終わった。クララは36歳、長女マリエは14歳、末子フェリックスはわずかに2歳であった。
31日の葬式はブラームス、ヨアヒム、ヒラーら各地から馳せ集った故人を畏敬する人々の手でしめやかに行われた。クララは「埋葬の音楽が聞こえた。彼の遺骸は埋葬される。しかし私は、はっきりとそれは彼の肉体のみで、霊魂は私とともにあるという確信があった。この時ほど、ひとりで生きうる力を与え給えと、神に熱心に祈ったことはない。私の幸福は彼とともに去った。新しい人生がすでに始まっているのだ」と当日の日記に記しているごとく、涙を拭いて、健気にも悲しみの中から雄々しく立ちあがる決心をしていた。
ヨハネスはクララの疲労を案じて、心の沈みがちなクララを誘って、姉のエリゼとともに子どもら二人を連れて、スイスに保養の旅にのぼった。美しいスイスの自然も、クララを慰めることはなかったが、ヨハネスのさしのべる献身的な純真な愛情は、クララをいかに力づけたことであろう。10月、ヨハネスが両親のもとに発った日には、「今日ヨハネスが発った。停車場から帰宅した時は、葬式から帰ったような思いがした」とクララは記している。この10月の上旬にブラームスは有名な「ピアノ協奏曲第1番 ニ短調」(第1楽章)を完成している。
恩師の死を間近に経験し、その恩師の子どもたちの面倒や勉強の世話を献身的に行うのと同時期に、この作品―完成から150年以上たった今でも世界各地で演奏されているであろうピアノ協奏曲―が生み出されたのです。
人間の努力には限界がないんでしょうか。