90歳代の緊急消化管手術を立て続けに担当しました。
小心者の私は「どうか心臓止まりませんように!」と毎回毎回深い祈りを捧げるだけなのですが。
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待つことには、偶然の(想定外の)働きに期待することが含まれている。それを先に囲い込んではならない。つまり、ひとはその外部にいかにみずから開きっぱなしにしておけるか、それが<待つ>には賭けられている。ただし、みずからを開いたままにしておくには、閉じることへの警戒以上に、努めが要る。<待つ>は、放棄や放置とは別のものに貫かれていなくてはならないからだ。 <待つ>は偶然を当てにすることではない。何かが訪れるのをただ受け身で待つということでもない。予感とか予兆をたよりに、何かを先に取りにゆくというのではさらさらない。ただし、そこには偶然に期待するものはある。あるからこそ、なんの予兆も予感もないところで、それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ。その意味で、<待つ>は、いまここでの解決を断念したひとに残された乏しい行為であるが、そこにこの世への信頼の最後のひとかけらがなければ、きっと、待つことすらできない。いや、待つなかでひとは、おそらくはそれよりさらに追いつめられた場所に立つことになるだろう。何も希望しないことがひととしての最後の希望となる、そういう地点まで。だから、何も希望しないという最後のこの希望がなければ待つことはあたわぬ、とこそ言うべきだろう。( 「待つ」ということ ― 鷲田清一、角川選書、2006年 p18-19)
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じりじりと焦りながらも待っています。これまで会ったことのないものを待つ日々です。追いつめられてはいません。いよいよ追いつめられていると自覚したときには色々と切り離すことになるでしょう。ロケットの打ち上げとおんなじです。
気がついたら、このブログものべ10万回、見てくださった方がいるようです。書いたものをウェブに上げてから750日ほどになりました。自分の半径5mのことしか書いていないのですし、お礼を申し上げるのもおかしな感じがしますが。ありがとうございます。