車窓から。恐らくスキー場だと思いますが、まだ雪がありませんでした。
これは首都高から撮影したスカイツリーです。車の助手席から撮影するとなかなかうまく撮れません。
これは上野駅から数分、散歩すると出会える景色です。電線が沢山行き交っているので、奥に鎮座するスカイツリーが、宛(さなが)ら合成写真のような趣を醸成していました。この道は、以前も歩いた筈だったのですが、今日はじめてこんなに存在感のあるスカイツリーに出会えることに気づきました。
ちょっと遠くから撮影。
あっという間に33歳になってしまいました。
なってしまいました…と書くと、32歳までの人生においてやり残したことが沢山あるような、そんなネガティブな印象を人さまに与えてしまうかもしれませんが、私の32歳は十分満喫しました。私の人生では常にそうなのですが、戻りたい過去は1つもありません。それは自分なりに―あくまで自分なりに―今日、この1日を大切に生きようと思って生きているからなのかもしれません。memento mori、carpe diemなのです。
勿論、大切に生きようと思っているのに、心と体が思うように動かなくて、今日という日をもっと大切に出来たかもしれない…と思う日もあります。というか沢山沢山あります。
それでも、自分は刻一刻と死に向かっているのは紛うことのない事実です。そしてそれは、今の私にとって、私の人生において100%確実に起こると思えるたった1つのことです。これは将来を悲観している為にでている言葉ではありません。人は皆死んでしまいます。本当に。
私の32歳は、私の人生において1番酔っ払っていたかもしれませんし(アルコールだけではなく、人や自然や音楽や実験や麻酔や絵画や本や映画、その他のことです)、1番お金を使ったかもしれませんし、人さまから見たら1番停滞していた1年かも知れません。
それでも、私の人生においては、1番、沢山の言葉を―心からの幸福を感じながら―周りの人たちと交わした1年でしたし、「ありがとうございます」という言葉を、きちんと声に出して、文字にして、伝えることができた1年でした。
今年影響を受けた本のうちの1冊。ヘルマン・ヘッセの「幸福論」(新潮文庫版、高橋健二訳)の文章を引用させていただいて、今日は終わり。
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人間が生活の苦難や危険のただ中にあってもそういうものを楽しむことができるかぎり、つまり、自然や絵画の中の色彩の戯れや、あらしや海の声の中の呼びかけや、人間の作った音楽などを楽しむことができるかぎり、また、利害や困難などの表面の奥で、世界を全体として見たり感じたりすることができるかぎり、つまり、たわむれる若いねこの頭が描く曲線から、奏鳴曲の変奏演奏にいたるまで、犬の感動的なまなざしから、詩人の悲劇にいたるまで、連関があり、無数に豊富なつながり、相応、類似、反映が存在していて、絶えず流れるそのことばから、聞くものに喜びと知恵、冗談と感動の与えられる、そういう全体として世界を見たり感じたりすることができるかぎり、―それができるかぎり、人間は、自分というものにまつわる疑問を繰返し処理して、自分の存在に繰返し意味を認めることができるだろう。 p42
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もしかしたら、少しは大人になれた1年だったかもしれません。
私の中の謙虚、感謝、諧謔を育んでくださった皆さんに心から感謝したいと思います。どうもありがとうございます。そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。