判断に迷ったときは患者ベース。これは医療従事者に前提として求められる価値観の1つであると理解している。全身麻酔中の患者を前にして輸血、薬剤、呼吸等どのようなdecision makingをするか、外科医にどのようなsuggestionをするか。赤血球は4単位でやめておくのか、もう2単位追加するのか。PVCが散発しているときに手術中止を勧めるのか。
私の判断基準は「どちらが後から、第三者からみてより納得しやすいか」という部分に寄りかかるところが大きい。しかし、それは結局「患者のため」というより「自分にお縄がかからないため」という、他人のためのふりをした自己防衛にしか過ぎないのではないか。ガイドラインやエビデンスはずるい。きれいな数値化されたデータをもとにしてできているから、それらに当て嵌まらない個々の臨床症例との対比において、至らない点があったときに、ガイドラインから大きく逸脱しているという点で断罪されるのだから。
患者は寝ている。麻酔科医は患者の代わりに患者を守る。患者の代弁をする。しかし、患者は麻酔科医でもない限り、幽体離脱して私と一緒に自分自身のバイタルサインをモニターで見ていたとしても、「ここでノルアドいけ~!」という判断は下せない。私は患者に良かれと思う医療行為を”想像して”知っている経験と知識を駆使して、私の想像範囲内において、薬をちょびちょび使いながら、時には輸血をポンピングしながら、その生命活動が少しでも潰えないように、少しでも寿命を縮めないように、少しでもストレスホルモンを出させないように麻酔をする。患者は自分の命を一時的に私に預ける。患者が意識していようが、無意識であろうが、寝た後の生命活動は大きく我々に委ねられる。
私が欲するのは、患者の僅かな不調の前兆も見逃さないvigilanceの眼。経験年数では遥かにベテランの先生方に劣る私は、その先生たちが見ている世界に少しでも追いつこうと日々躍起になっている。結果として行う麻酔行為が同じでも、どの時点で「それをやる可能性」を想像できるかという、実際の行為までの時間的余裕は各人において様々。行動を起こすまでに、一秒でも早く、考えうる病態と鑑別、治療法をきれいに取捨選択できるようになりたい。そして、自信をもって選択した行為に対しても、謙虚に「本当によかったのか」を見直せるような人間になりたい。というようなことをつらつらと手術室の監督をしているときに考えた。
***
「私には責任がないから寝ている。責任があるものだけでなんとかしろ」ということが言えるのは、実は危機感がないからです。このまま座礁すれば、全員死ぬことになると思っていない。誰かがなんとかしてくれるだろうと思っている。他責的な人間というのは、実は無根拠に楽観的な人間でもあるのです。自分がいなくても何とかなると思っている。でも、「自分がいなくても何とかなる」というのは、危機の評価が低いということと同時に、自分が貢献できることについても、きわめて低い評価をしているということです。「自分なんかいても、何の役にも立たない」と思っている(ただし、これは意識化されていません)。被害評価の低さ(無根拠な楽観)と、自己卑下(無根拠な悲観)、この二つが「犯人捜し」に熱中する他責的な人々の特徴なのです。(街場の教育論 - 内田樹 p176より)
***
救急救命士さん(女性)が外勤先の病院に気管挿管実習に来ていたのでちょっと話をした。曰く、救急車を呼ぶ7-8割の人々は「こんなので呼ぶなよ」系や「それって人としてどうなのか」系(常識的でない人間性が疑われる人々)らしい。救急車を呼んで病院に着き、時間外診療を受ける。後から消防署に感謝の手紙が送られてくることもあるけど・・・と救命士さんは話す。7枚綴りの手紙の1枚目には「本当にお世話になりました」と。残りの2-7頁には何が書いてあるかというと、「○○市に救急車で帰るのですから、私も乗せてくれればよかったのに、云々」といったことがくどくどくどくど。これを書く人には少なくとも「○○市に救急車が戻る際に、別件の救急要請が入り、自宅から遠く離れた場所にそのまま急行する可能性」についての想像力が完全に欠如している。しかも恐らく手紙をしたためたのは自宅に帰ってからであろうから、そのような喫緊でない環境下においてでも、である。自分を1人の人間として尊重してもらいたいのか、暇なのか、寂しいのか、理由は私には全く不明だが、手紙を書ける位元気なのだからまぁよかったですね、とも思う。もしかすると「高い税金を払っているんだから、救急車くらい自由に使ってもいいじゃないか」と思っているのかもしれない。この島国で健康に生きていると「命の修理にかかる金額は安い」と錯覚する人が少なからずいる。献血には一度も行ったことがないのに、家族が出血性ショックになり救命処置で輸血が間に合わないということに目くじら立てて訴訟を起こすような人もいる(勘違いしないでいただきたいが、献血をする人が偉いとは言っていないし、献血すれば何を言ってもよいとも言っていない。勿論献血をしない人には大量輸血の治療を受ける権利がないなどというつもりも無い。病院には輸血用の血液があるのが「当たり前」だという、その想像力の欠如を問題にしているのである)。日中に開業のクリニックにかかることが決して不可能ではないはず、にも関わらず、昼間は無理して働いて、夜間やっぱり具合悪いからと「歩いて病院に来ることが出来、自分の症状を自分の言葉で訴えられる程度に元気なのにもかかわらず」救急外来に平然とかかったりする。要するに、そこにある人・物資双方の医療資源の限界やルールへの想像力を全く働かせることなしに、自分が損をしたり被害を受けたという「狭い想像力」の中だけでモノを語るのは控えたほうがよいということだ。人は死ぬものである。
というようなことばかり言うのは、当直の外科医が「夜間歩いて来院できるような患者」の対応で睡眠時間を蝕まれ、翌日の予定手術で動脈一本でも無駄に損傷してほしくないからという理由からである。煩悩が多すぎて、とてもじゃないが仏にはなれない私。そんな私もきっと歩いて救急外来に行ってしまうのである。
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2010年9月12日日曜日
(本)組織行動の「まずい!!」学 ― 樋口晴彦 ~に学ぶこと
こんなに金言がつまった書物がたった777円で販売されているという現実に直面すると、資本主義社会の素晴らしさを感じる。麻酔科医にとっても身につまされる金言の宝庫。
(以下引用、太字は私)
・規則やマニュアルを無用に増加させると、かえって現場の規範意識を後退させる危険性があることに注意が必要である。(41)
・リスク・マネジャーにとっては、危機感を着実に麻痺させていく「忘却」と戦うことが、最初の、そして永遠の課題である。(76)
・改善と改悪は鏡の表裏。現場レベルでの改悪を防ぐためには、日頃の作業監督をみっちり実施するしかない。特に作業能率が非常に悪い部署については、現場の創意工夫の結果として、安全対策がなし崩しにされる危険性が常に存在すると留意すべき。(88)
・「アウトソーシング」したからといって、そのリスクまで一緒に外注先に押し付けることはできない」という当然の事実が認識されているかどうかだ。(104)
・安全管理によってどのような事故が予防されたのかという「業績」を周囲に説明できない。むしろ安全管理を真面目にやればやるほど業務的には非効率になるため、平素では社内の他部門から疎まれがちな存在だ。安全管理に失敗しなければ、その重要性を理解してもらえないという皮肉な構造である。(107-8)
・「心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず」(140)
・タイムリーな初動措置の実施は、まさしく危機管理の要諦である。(155)
・手許に無造作に積み上げられた紙の山の中に、ひょっとしたらダイヤモンドの原石が隠れているのかもしれない。その存在に気が付くかどうかは、まさに「情報を求める側」の力量にかかっているのである。(163)
・情報の不足はあくまでも「結果」にすぎず、その「原因」のうちの相当な部分は、情報を求める側に在るということだ。「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」(172)
・「悪魔は細部に宿る」(207)
・堕落した組織文化は重大な危機を招来しかねないことを経営者は強く自戒する必要がある。(219)
・組織文化に根ざした現場の思考方式を改めるのは、システムを導入するよりもはるかに時間がかかることなのだ。(224)
***
ローテート研修医や後期レジデントの先生たちと一緒に麻酔管理を行うことが多いが、そんな自分に戒めとしておきたいのが次の言葉。
・現場はあくまで現場。その知識は基本的に経験の範囲内に限られ、これを逆に言えば、経験のないことはよくわからない。その結果、気付かぬうちに大変な事態になっていたということになりかねない。(88-9)
・専門家は、十分に事実を確認しないうちから、「あぁ、これは〇〇だ」と判断を下してしまう癖がある。真実を見つけようとするのではなく、自分の知見の範囲内で結論を当てはめてしまうわけだ。(179)
できる研修医ほど気をつけなくてはならない・・・というわけではないが、きちんと対応できるだろうと思っていても「彼/彼女」にはそれが常識ではないかもしれないし、経験したことがない症例かもしれない、ということを常に考えてみていく必要がある。私と「彼/彼女」が同じ手術からみえるものは恐らく違う。手技が上達し、指導医と研修医の間で差がなくなってくるときに、指導医が指導するものはまさにその部分であると思う。とともに研修医への指導が「麻酔科学」ではなく、「自分の経験」に偏っていくことへも十分注意しなくてはならない。
***
警視庁は、帝京大病院の感染問題への対応が業務上過失致死容疑などに当たるかどうか調べているらしい。マスコミや、web上でいろいろな人が、現場の対応へ批判的なコメントをしているのに対し、私は強い違和感を感じてしまう。
・人間とは過ちを犯す生き物である。「俺だけはそんなことはない」と本気で言い切れる者がいたとしたら、それはただの愚か者だ。自らの失敗を真摯に反省した上で、同じ過ちが繰り返されないようにその経験をありのままに伝え、それを聴く側も自分がいつ同じ過ちがを犯すかわからないという畏れを持つ、それこそが失敗に学ぶという姿勢という姿勢なのである。(230-1)
私が声高に批判しないのは、謙虚だからでもなんでもなく、自分が当事者だったらつるし上げられたくないという矮小な人間性の持ち主だからである。矮小な私ですら批判をする場合には、それが事実であるかをまず調査し、その上で実行可能で前向きな提言をセットで行うべきとは少なくとも思うのだが。
(以下引用、太字は私)
・規則やマニュアルを無用に増加させると、かえって現場の規範意識を後退させる危険性があることに注意が必要である。(41)
・リスク・マネジャーにとっては、危機感を着実に麻痺させていく「忘却」と戦うことが、最初の、そして永遠の課題である。(76)
・改善と改悪は鏡の表裏。現場レベルでの改悪を防ぐためには、日頃の作業監督をみっちり実施するしかない。特に作業能率が非常に悪い部署については、現場の創意工夫の結果として、安全対策がなし崩しにされる危険性が常に存在すると留意すべき。(88)
・「アウトソーシング」したからといって、そのリスクまで一緒に外注先に押し付けることはできない」という当然の事実が認識されているかどうかだ。(104)
・安全管理によってどのような事故が予防されたのかという「業績」を周囲に説明できない。むしろ安全管理を真面目にやればやるほど業務的には非効率になるため、平素では社内の他部門から疎まれがちな存在だ。安全管理に失敗しなければ、その重要性を理解してもらえないという皮肉な構造である。(107-8)
・「心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず」(140)
・タイムリーな初動措置の実施は、まさしく危機管理の要諦である。(155)
・手許に無造作に積み上げられた紙の山の中に、ひょっとしたらダイヤモンドの原石が隠れているのかもしれない。その存在に気が付くかどうかは、まさに「情報を求める側」の力量にかかっているのである。(163)
・情報の不足はあくまでも「結果」にすぎず、その「原因」のうちの相当な部分は、情報を求める側に在るということだ。「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」(172)
・「悪魔は細部に宿る」(207)
・堕落した組織文化は重大な危機を招来しかねないことを経営者は強く自戒する必要がある。(219)
・組織文化に根ざした現場の思考方式を改めるのは、システムを導入するよりもはるかに時間がかかることなのだ。(224)
***
ローテート研修医や後期レジデントの先生たちと一緒に麻酔管理を行うことが多いが、そんな自分に戒めとしておきたいのが次の言葉。
・現場はあくまで現場。その知識は基本的に経験の範囲内に限られ、これを逆に言えば、経験のないことはよくわからない。その結果、気付かぬうちに大変な事態になっていたということになりかねない。(88-9)
・専門家は、十分に事実を確認しないうちから、「あぁ、これは〇〇だ」と判断を下してしまう癖がある。真実を見つけようとするのではなく、自分の知見の範囲内で結論を当てはめてしまうわけだ。(179)
できる研修医ほど気をつけなくてはならない・・・というわけではないが、きちんと対応できるだろうと思っていても「彼/彼女」にはそれが常識ではないかもしれないし、経験したことがない症例かもしれない、ということを常に考えてみていく必要がある。私と「彼/彼女」が同じ手術からみえるものは恐らく違う。手技が上達し、指導医と研修医の間で差がなくなってくるときに、指導医が指導するものはまさにその部分であると思う。とともに研修医への指導が「麻酔科学」ではなく、「自分の経験」に偏っていくことへも十分注意しなくてはならない。
***
警視庁は、帝京大病院の感染問題への対応が業務上過失致死容疑などに当たるかどうか調べているらしい。マスコミや、web上でいろいろな人が、現場の対応へ批判的なコメントをしているのに対し、私は強い違和感を感じてしまう。
・人間とは過ちを犯す生き物である。「俺だけはそんなことはない」と本気で言い切れる者がいたとしたら、それはただの愚か者だ。自らの失敗を真摯に反省した上で、同じ過ちが繰り返されないようにその経験をありのままに伝え、それを聴く側も自分がいつ同じ過ちがを犯すかわからないという畏れを持つ、それこそが失敗に学ぶという姿勢という姿勢なのである。(230-1)
私が声高に批判しないのは、謙虚だからでもなんでもなく、自分が当事者だったらつるし上げられたくないという矮小な人間性の持ち主だからである。矮小な私ですら批判をする場合には、それが事実であるかをまず調査し、その上で実行可能で前向きな提言をセットで行うべきとは少なくとも思うのだが。
Training in Rena (其の六十壱)
もしかしたら20kmレース前最後の練習になるかもしれないが、10日ぶりの練習だったからこのくらいにしておこうと思う。
ランニング: 10.0km 62分(傾斜0, 8-8.5km間だけ傾斜10.0, 8-10.5km/h)
計453.5km(6月 63.8km, 7月 80.2km, 8月 65.8km, 9月 15.0km)
(総時間2817分=46時間57分)
9月20km:田沢湖マラソン(あと7日)
11月 5km: ねりま光が丘ロードレース(あと63日)
12月21.095km:いたばしリバーサイドハーフマラソン(あと84日)
(2011年2月 30km:青梅マラソン あと161日)
ランニング: 10.0km 62分(傾斜0, 8-8.5km間だけ傾斜10.0, 8-10.5km/h)
計453.5km(6月 63.8km, 7月 80.2km, 8月 65.8km, 9月 15.0km)
(総時間2817分=46時間57分)
9月20km:田沢湖マラソン(あと7日)
11月 5km: ねりま光が丘ロードレース(あと63日)
12月21.095km:いたばしリバーサイドハーフマラソン(あと84日)
(2011年2月 30km:青梅マラソン あと161日)
2010年9月11日土曜日
食堂かたつむり☆☆☆
2010年、119分。
主演の柴咲コウが殆ど喋らないこの映画は、見る人を選ぶ作品だろう。全体を支配するゆる~い不条理感と明るさ、若干説明不足なままに進んでいくストーリー。ファンタジーと思って見ていると脈絡のない展開に怒ることもないであろうし、そもそもそんな一般常識的な論理展開を、このような映画に当てはめようとすること自体間違っていそうである。倉橋ヨエコの歌を思い出すような、ほんわかとした気分になれる映画。
主演の柴咲コウが殆ど喋らないこの映画は、見る人を選ぶ作品だろう。全体を支配するゆる~い不条理感と明るさ、若干説明不足なままに進んでいくストーリー。ファンタジーと思って見ていると脈絡のない展開に怒ることもないであろうし、そもそもそんな一般常識的な論理展開を、このような映画に当てはめようとすること自体間違っていそうである。倉橋ヨエコの歌を思い出すような、ほんわかとした気分になれる映画。
地方会(第50回関東甲信越・東京支部合同学術集会)
ER経由の緊急手術や明け方の緊急帝王切開術の麻酔のため、あまり眠れなかった。帝切の麻酔は久しぶりだったが、2010年3月5日の診療報酬改定で麻酔管理料が700点加算されることになったので、ちょっとやる気が出るというもの。
んで地方会。
今年は同じ職場の先生方の発表が多かったのでなるべく全部見たかったのだが、帝切後に意識消失してしまったので、会場に着いたのは昼過ぎになってしまった。初めて自分が指導者として、レジデントの先生に発表してもらうことになった今回の学会。初めての発表というと「ちょっと珍しい1例報告」が多い中、こつこつとまとめてくれたK先生に感謝。発表も質疑応答も堂々としていたので私が出る幕もなかったのである。やはり発表では声がきちんと通ることが何よりも重要である。いろんなポスター発表を概観したが、困難な症例で安全性を追求するという命題が多くの発表に共通していたようだ。
んで地方会。
今年は同じ職場の先生方の発表が多かったのでなるべく全部見たかったのだが、帝切後に意識消失してしまったので、会場に着いたのは昼過ぎになってしまった。初めて自分が指導者として、レジデントの先生に発表してもらうことになった今回の学会。初めての発表というと「ちょっと珍しい1例報告」が多い中、こつこつとまとめてくれたK先生に感謝。発表も質疑応答も堂々としていたので私が出る幕もなかったのである。やはり発表では声がきちんと通ることが何よりも重要である。いろんなポスター発表を概観したが、困難な症例で安全性を追求するという命題が多くの発表に共通していたようだ。
2010年9月5日日曜日
おんたいむ
新木場駅で降りたのは初めてだったかもしれない。
夢の島公園に行ったのは初めて。
高校時代の友人たちに久しぶりに会ったが、皆が皆、集合時間に遅刻しなかったのが、なんだか奇跡のように素晴らしいことのような気がした(普段時間通りに皆が集まらない、という意味ではない)。それとともに昨日医局説明会に遅刻した自分をちょっと反省。
***
小沢氏は規正法違反事件について、「検察の捜査でも、不正はなかったと明らかになった」と強調。問題が発覚したときには、事務所費をすべて公開したと述べ、「ほかにも政治資金の問題を指摘された人もいる。透明な資金と言うなら、全員公開しなければおかしい」と反論した。(時事通信 2010/09/01-21:51)
これって
「他にも宿題やってこなかったやつがいる。俺だけ怒られるのはおかしい」
「他にもスピード違反ならみんなしてる。俺だけ罰金取られるのはおかしい」
って言ってるのと大して違わないような気がする。
その言葉自体は自分の弁護を全くしていないし、自己の行動の正当性を主張できていないのでは。というより政策云々の前にこういうことを言わなければならない土壌があること自体が悲しいのである。
***
ということを炎天下の下、肉を焼きながらつらつらと考えていた。ことばは本当に独り歩きするものだ。
夢の島公園に行ったのは初めて。
高校時代の友人たちに久しぶりに会ったが、皆が皆、集合時間に遅刻しなかったのが、なんだか奇跡のように素晴らしいことのような気がした(普段時間通りに皆が集まらない、という意味ではない)。それとともに昨日医局説明会に遅刻した自分をちょっと反省。
***
小沢氏は規正法違反事件について、「検察の捜査でも、不正はなかったと明らかになった」と強調。問題が発覚したときには、事務所費をすべて公開したと述べ、「ほかにも政治資金の問題を指摘された人もいる。透明な資金と言うなら、全員公開しなければおかしい」と反論した。(時事通信 2010/09/01-21:51)
これって
「他にも宿題やってこなかったやつがいる。俺だけ怒られるのはおかしい」
「他にもスピード違反ならみんなしてる。俺だけ罰金取られるのはおかしい」
って言ってるのと大して違わないような気がする。
その言葉自体は自分の弁護を全くしていないし、自己の行動の正当性を主張できていないのでは。というより政策云々の前にこういうことを言わなければならない土壌があること自体が悲しいのである。
***
ということを炎天下の下、肉を焼きながらつらつらと考えていた。ことばは本当に独り歩きするものだ。
2010年9月4日土曜日
医局説明会
という名の飲み会に参加。
37.2℃と灼熱の日中にたっぷりと睡眠を確保。飲み会の会場に向かう途中、Disk UnionでCDを漁っていたらちょっと遅刻してしまった。Disk Unionの店内では初期Kamelotのベスト選曲ライブアルバム「The Expedition」が爆音で流れていた。もう廃盤になってしまったらしいので、この先一生聴くことができないかもしれないと思い思いがけず購入。
幹事の先生、来てくれた10数人の初期研修医の先生方、ありがとうございました。
研修医の先生方には、スタッフのいろんな話を聴いて、少しでも共鳴するものを感じてくれれば一歩踏み出していただければと思う。最終的に他の選択肢との間で悩むようであれば、自分の体が発する直感を信じて進むのもよいと思う。
37.2℃と灼熱の日中にたっぷりと睡眠を確保。飲み会の会場に向かう途中、Disk UnionでCDを漁っていたらちょっと遅刻してしまった。Disk Unionの店内では初期Kamelotのベスト選曲ライブアルバム「The Expedition」が爆音で流れていた。もう廃盤になってしまったらしいので、この先一生聴くことができないかもしれないと思い思いがけず購入。
幹事の先生、来てくれた10数人の初期研修医の先生方、ありがとうございました。
研修医の先生方には、スタッフのいろんな話を聴いて、少しでも共鳴するものを感じてくれれば一歩踏み出していただければと思う。最終的に他の選択肢との間で悩むようであれば、自分の体が発する直感を信じて進むのもよいと思う。
2010年9月3日金曜日
『わかりました』がわかりません
他者(特定の人を指していません)に指示をして、「わかりました」と返事が返ってくる。
他者にそれをやってもらう。
やってもらった状態をチェックすると、指示と違うことをやっている。
それが複雑な指示だったら(イノバンを5ml/hrではじめて、など)理解できるのだが、その指示が
「およそ人として社会生活を行うにあたって、基本といえるような極めて常識的なこと」
だった場合、どのようにすれば、当事者に分かってもらえるのであろうか。
問題なのは相手が「わかりました」と言っているという事実である。
私としては「わかりました」という言葉が、当事者の脳で、その指示を咀嚼し理解した後で吐き出されていることを当然期待しているわけである。だが、その指示が行動に全く反映されていない。
これについて考えることが最近の悩みでもあり、楽しみでもある。
多分当事者の「わかりました」ということばの意味が、私が思う「『わかりました』が包含する『わかりました』の意味」と違うのであろう。自分で言っててよくわからなくなってきたが、恐らくそういうことなのかもしれない。だから今度は「その『わかりました』が意味するのはどういう『わかりました』なのか」を確認する必要がある。だがそんなことをすると、当事者から全く不必要な敵意を買いそうな気もするが、恐らくそのような人はそれを「なめてんのか」と思わない筈である。同じことばに直面しても私とは違う風景を眺めているのであろうから。
他者にそれをやってもらう。
やってもらった状態をチェックすると、指示と違うことをやっている。
それが複雑な指示だったら(イノバンを5ml/hrではじめて、など)理解できるのだが、その指示が
「およそ人として社会生活を行うにあたって、基本といえるような極めて常識的なこと」
だった場合、どのようにすれば、当事者に分かってもらえるのであろうか。
問題なのは相手が「わかりました」と言っているという事実である。
私としては「わかりました」という言葉が、当事者の脳で、その指示を咀嚼し理解した後で吐き出されていることを当然期待しているわけである。だが、その指示が行動に全く反映されていない。
これについて考えることが最近の悩みでもあり、楽しみでもある。
多分当事者の「わかりました」ということばの意味が、私が思う「『わかりました』が包含する『わかりました』の意味」と違うのであろう。自分で言っててよくわからなくなってきたが、恐らくそういうことなのかもしれない。だから今度は「その『わかりました』が意味するのはどういう『わかりました』なのか」を確認する必要がある。だがそんなことをすると、当事者から全く不必要な敵意を買いそうな気もするが、恐らくそのような人はそれを「なめてんのか」と思わない筈である。同じことばに直面しても私とは違う風景を眺めているのであろうから。
2010年9月2日木曜日
Training in Rena (其の六十), 当直明けラン
ランニング: 5.0km 32分(傾斜0, 最後の500mだけ傾斜10.0, 9-10.5km/h)
計443.5km(6月 63.8km, 7月 80.2km, 8月 65.8km, 9月 5.0km)
(総時間2755分=45時間55分)
9月20km:田沢湖マラソン(あと17日)
11月 5km: ねりま光が丘ロードレース(あと73日)
12月21.095km:いたばしリバーサイドハーフマラソン(あと94日)
(2011年2月 30km:青梅マラソン あと171日)
田沢湖マラソンの参加通知はがきが郵送されてきた。と、同時に12月のマラソンの申し込みを行ってみた。定期的にレースに参加するのは、練習の怠け予防である。
計443.5km(6月 63.8km, 7月 80.2km, 8月 65.8km, 9月 5.0km)
(総時間2755分=45時間55分)
9月20km:田沢湖マラソン(あと17日)
11月 5km: ねりま光が丘ロードレース(あと73日)
12月21.095km:いたばしリバーサイドハーフマラソン(あと94日)
(2011年2月 30km:青梅マラソン あと171日)
田沢湖マラソンの参加通知はがきが郵送されてきた。と、同時に12月のマラソンの申し込みを行ってみた。定期的にレースに参加するのは、練習の怠け予防である。
「働きたくない」というあなたへ - 山田ズーニー
「なんかこれ、やってもやらなくても給料一緒だし、時間かかりそうだけど、なんとなく面白そうじゃん」や「めんどくさいけど、これやったらもっとよくなりそうじゃん」「いつも何となくやってるけど、本当にこれでいいのかな」といった理由を原動力とする仕事時間が増えていけばいいな~と思っている今日この頃。
(以下引用)
・子どもは、学校という「行く場所」が用意されていることのありがたみに気づかない。(20)
・「行く場所」も「帰る場所」も、人には両方要る。(25)
・不思議にも「縛られている」と認めることが自分を生かし、関係性を生かし、ひいては相手を生かす結果になる。(34)
・せっかく、ご先祖さんから親へ、自分へ、次の世代へ壮大なリレーのバトンをもらったからには、1円でも、2円でもいい。ささやかなことでも、自分が生まれてきたことで、「何かそれ以上の価値」を支払って、自分の区間を完走したい。(89)
・決めたら、言葉にして、行動として、「出す」。周囲とぶつかってみる。失敗を引き受ける。唯一それだけが、勉強のために今を犠牲にしてきた生き方から、仕事のために今を犠牲にしていく生き方への連鎖を断ち、自分の時間を取り戻す道ではないか。(93-4)
・「幸せな結婚をする」ではなく、「結婚生活を幸せなものにする」だ。この二つは、似ているけれど、ずいぶんちがう。(99)
・自立とは、周囲の意向や期待にかかわらず、現在の個人の意図や思いを実現すること(自己主張・自己実現)。自律とは、周囲から求められている自分の役割を認識し、それと調整を図りながら、自分の新たな可能性や価値観を開発していくプロセス。自分の多様な可能性に気付き、発揮しつづけること。(110-1)
・「楽しく生きる」への違和感の理由として、「予想できる範囲でしか生きられない」ことの不自由があると思いました。自分で「楽しく」と言った段階で、「自分の思った『楽しい』という範囲」に制限されてしまいそうな気がするんですね。自分が目を背けたくなるところにこそ、自分自身を広げるなにかが在る。そう思います。(120)
・「そういうわけにはいかんのじゃ」(134)
(引用終わり)
社会的要求を無視して働くということは成り立たない。つまらなそうな仕事にこそ、もしかしたら、価値観を広げたり新たな自分の一面を発見できるような思わぬお宝があるのかもしれない。
という考え方自体が「食う寝る着る」に取り敢えず困らないくらいの報酬を仕事から得ていることを前提にしている、ということの幸せをまずは思い出さなくてはならない。
とはいうものの、定期的にこのような本によって自己の引き締めを図っているという事実自体がやるべきことに集中できていない証拠か。
(以下引用)
・子どもは、学校という「行く場所」が用意されていることのありがたみに気づかない。(20)
・「行く場所」も「帰る場所」も、人には両方要る。(25)
・不思議にも「縛られている」と認めることが自分を生かし、関係性を生かし、ひいては相手を生かす結果になる。(34)
・せっかく、ご先祖さんから親へ、自分へ、次の世代へ壮大なリレーのバトンをもらったからには、1円でも、2円でもいい。ささやかなことでも、自分が生まれてきたことで、「何かそれ以上の価値」を支払って、自分の区間を完走したい。(89)
・決めたら、言葉にして、行動として、「出す」。周囲とぶつかってみる。失敗を引き受ける。唯一それだけが、勉強のために今を犠牲にしてきた生き方から、仕事のために今を犠牲にしていく生き方への連鎖を断ち、自分の時間を取り戻す道ではないか。(93-4)
・「幸せな結婚をする」ではなく、「結婚生活を幸せなものにする」だ。この二つは、似ているけれど、ずいぶんちがう。(99)
・自立とは、周囲の意向や期待にかかわらず、現在の個人の意図や思いを実現すること(自己主張・自己実現)。自律とは、周囲から求められている自分の役割を認識し、それと調整を図りながら、自分の新たな可能性や価値観を開発していくプロセス。自分の多様な可能性に気付き、発揮しつづけること。(110-1)
・「楽しく生きる」への違和感の理由として、「予想できる範囲でしか生きられない」ことの不自由があると思いました。自分で「楽しく」と言った段階で、「自分の思った『楽しい』という範囲」に制限されてしまいそうな気がするんですね。自分が目を背けたくなるところにこそ、自分自身を広げるなにかが在る。そう思います。(120)
・「そういうわけにはいかんのじゃ」(134)
(引用終わり)
社会的要求を無視して働くということは成り立たない。つまらなそうな仕事にこそ、もしかしたら、価値観を広げたり新たな自分の一面を発見できるような思わぬお宝があるのかもしれない。
という考え方自体が「食う寝る着る」に取り敢えず困らないくらいの報酬を仕事から得ていることを前提にしている、ということの幸せをまずは思い出さなくてはならない。
とはいうものの、定期的にこのような本によって自己の引き締めを図っているという事実自体がやるべきことに集中できていない証拠か。
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